現代労働者はすべての能力を
労働に差し出すことが求められる

 そのような移行にともなって「働き方」のイメージも変化してくるでしょう。フォーディズムでは生産ラインで黙々と働く労働者のイメージが中心にありました。ポストフォーディズムの労働者はそうではなく、むしろ活発にコミュニケーションを取ることが求められるでしょうし、場合によっては感情のやりとりも含めたコミュニケーションそのものが商品となるでしょう。

 ここで、フォーディズム労働者について述べた「疎外」が、ポストフォーディズム労働者にとっては大きく変化してきます。ポストフォーディズムにおいてはコミュニケーション能力や感情管理能力といった、フォーディズム下では人間的(つまり労働者として以外の)能力と考えられていたもの、余暇に属すると考えられていたようなものが、労働のための重要な能力、もしくは商品そのものになるのです。極端に言えば、労働時間と余暇の時間を区別し、労働者としての自分と人間としての自分を区別する労働者はポストフォーディズム労働者失格ということになります。

 これは、「疎外(自分ではなくなること)」との関係で考えるとどういうことになるでしょうか?ひとつの見方としては、ポストフォーディズム労働者は徹頭徹尾疎外されていると言うことができるかもしれません。人間としてのあらゆる能力を労働に差し出さなければならないのですから。

 しかし逆に、疎外は解消されているという見方もできてしまいます。何しろ、ここまでの定義が正しいなら、「労働している自分は本来の自分」なのですから。ポストフォーディズム労働者はフォーディズム労働者と違って、自分の生産の全体を把握し、やりがいを持って労働しているかもしれません。少なくとも労働者の意識の中では。

 図では、以上のようなフォーディズムとポストフォーディズムの違いをリスト化してみました。

P29 図版同書より転載 拡大画像表示