フォーディズム労働だった将棋が
ポストフォーディズム労働へ変わった

 さて、ここでようやく『3月のライオン』に戻ります。

 桐山零が高校に行くのは「人生」を取り戻すためだ、という素直に思える解釈は、フォーディズム的な前提に立った解釈だということになりそうです。その解釈によれば、棋士であることは、「疎外」された労働だということになります。本来の自分がいて、労働をしている(棋士である)間はそうではない自分になる。くり返しになりますが、普通の将棋漫画におけるように、将棋が「天才」による技芸であるならば、そのような疎外は存在しないでしょう。将棋という「労働」は、「天才」という疎外のない全人格によって行われることなのですから。

 ですが『3月のライオン』という漫画のポイントは、そうではなく将棋を――少なくとも零にとっては――疎外された労働として描くことにあります。零が高校に入って「労働の外側の本来の自分」を取り戻そうとすることは、まずはその表現のように見えます。

 ところが高橋君とのやりとりの結果、逆転が起きます。高校に行くことは、将棋から逃げるどころか、棋士として完成されるためである。逆に言えば、高校に行って失われた人生を取り戻さないかぎり、零は棋士として完成されないのです。

 ここに表現されているのは、フォーディズムからポストフォーディズムへの移行そのものであるように思われます。零にとって将棋は、棋士であることはまずはフォーディズム的な疎外された労働なのだけれども、ポストフォーディズム的な現在においてそれは、「労働」としては何かが欠落している。その欠落は彼が高校に通い、失われた人間的成長を取り戻すことによって埋めることができる。

 ここで起きていることは、人間的な学びで得られる人間的能力が、労働に収奪される、ということにはとどまりません。そもそもの区別、つまり職業スキルと人間としての力との間の区別が無効化されているのです。それによって将棋はフォーディズム労働から、人間のアイデンティティやコミュニケーション能力などを総動員したポストフォーディズム労働へと変わっていく。『3月のライオン』はそのようなプロセスを描いているのです。