秀吉の「美濃大返し」
増田:ちなみに、「美濃大返し」については、実際に一回、大垣あたりまで行ったときに、秀吉は中入りをすると想定していたのでしょうか。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家との戦い賤ヶ岳の戦いで、秀吉が軍を美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)から近江国木之本(現在の滋賀県長浜市)までの13里(約52km)を5時間で移動させた出来事。
小和田:あれは、分かりません。賤ヶ岳近辺の状況が、このままではにっちもさっちもいかないので、自分が抜ければ柴田勝家が動くのではないかという読みはあったと思います。しかし、これも秀吉にとっては運が良かったことに、木曽三川が荒れて大垣から岐阜に行けませんでした。行っていれば、もしかしたら戻らなかったかもしれません。対峙している敵軍の後ろ側に、軍の一部を回して、双方から挟み撃ちをする「中入り作戦」には疑問符を付けています。
事業承継の好例「毛利両川体制」
増田:なるほど、次に秀吉の承継について聞きたいです。毛利元就は孫の輝元のために「毛利両川体制」の形で、次男の吉川元春と三男の小早川隆景の二人を付け、彼らの甥にあたる輝元をバックアップする体制をつくり、結果的にうまくいきました。
歴史通の経営コンサルタント。小宮コンサルタンツ コンサルティング事業部長・エグゼクティブコンサルタント
1974年、広島市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、生命保険会社、大手コンサルティング会社、起業を経て、現在に至る。小学1年生のころから偉人の伝記を読むのが好きで、徳川家康などの伝記や漫画を読みあさっていた。小学4年生のとき、両親に買ってもらった「日本の歴史」シリーズにハマり過ぎて、両親からとり上げられるほどだった。中学は中高一貫の男子校に進学。最初の授業で国語の先生に司馬遼太郎著『最後の将軍』をすすめられたことをきっかけに、中学・高校で司馬遼太郎の著作を読破し、日本史・中国史・欧州史・米国史と歴史書も読みあさる。現在は経営コンサルタントとして経営戦略の立案・実践や経営課題の解決を支援するなど、100社以上の経営者・経営幹部と向き合い、歴史を活かしたアドバイスも多数実践してきた。本作が初の著作となる。
小和田:あれは本当にうまくいった例です。
増田:それに比べると、秀吉の場合はうまくいきませんでした。もちろん、天下と中国地方というシチュエーションの違いもありますし、天下統一に貢献した秀長が先に亡くなっているということもあります。
人間が関わることには想定外もある
小和田:そのとおりです。私はよく講演でも、補佐役、ナンバー2が大事だという局面で、天正19(1591)年に秀長が亡くなったことが、秀吉のその後を混迷させたという話をします。豊臣政権の運営を五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝)、五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に委ねたのは良かったと思います。しかし、家康に権限を与え過ぎたのではないかとも思います。
これも歴史の運命なのかもしれませんが、前田利家があと2、3年長く生きていれば、家康が中心となって豊臣政権を取り仕切るようなこともなく、五大老・五奉行体制はうまく機能したと思います。たまたま早くに前田利家が死んでしまったことが、家康が表に出てきたという結果になりました。やはり、あれも歴史なのかもしれません。
増田:毛利両川体制では、叔父の小早川隆景が、甥の輝元の補佐役、ナンバー2として大きな地位を占めていたと考えていいですか。
地理的な環境と条件の違い
小和田:吉川元春と小早川隆景を比べた場合、武将としてのさまざまな感覚や力量から、小早川隆景のほうが上だと思います。なぜかというと、吉川元春は山陰、小早川は瀬戸内側だからです。日本全体でいうと、瀬戸内側のほうが京都、大坂に近く、さまざまな情報も入ってきて、感覚的にかなり研ぎ澄まされていました。
その一つの例が、備中高松城水攻めのときに、信長が死んだ本能寺の変が起こり、吉川元春がすぐに追い掛けようとしたことです。それに対して、小早川隆景は追い掛けるべきではないと判断しました。そのときの言い草が、起請文を書いた墨が乾かないうちに、その起請文を反故にするのは毛利家の家風ではないというものでした。変な言い方で理由付けをしているけれども、小早川のほうが完全に秀吉の力を読んでいました。信長の後継者は秀吉であると読んだから、追撃を止めたのだと思います。
一方、吉川元春は、追い掛けて、明智と一緒になって秀吉を倒せば、毛利の天下になると短絡的に考えたのでしょう。そこは小早川隆景と吉川元春が置かれていた、京都、大坂の情報がたくさん入った瀬戸内側と、それほど情報が入らなかった山陰側という土地の違いです。
ちょっと話が脱線するかもしれませんが、もう一ついえるのが小田原北条氏です。箱根の山によって、秀吉のすごさに関する情報があまり入ってきませんでした。その点、家康は、関西から見れば箱根よりも前にいます。また、家康は秀吉と会っているので、秀吉のすごさに気付いていました。
ここで秀吉に盾突いては駄目だということが分かっていたのです。私は、武将たちの置かれていた地理的な環境、条件が歴史に大きく関係していると思っています。
情報収集力の差が大きい
増田:話を聞いていて、今につながる話だと思いました。経営コンサルタントの私が、現場でコンサルティングを行っていても、情報収集ができている人とできていない人では、これからどうしていけばいいかという会社の方向付けの点で差が出ると感じています。
小和田:戦国時代も現在も、情報収集力の差が大きいと思います。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者と監修者によるスペシャル対談です。