フィクション、ノンフィクション問わず、「田舎」に住み「趣味を持たず身なりにもかまわず子に尽くすことだけが生きがい」の母の自己犠牲は、日本人の琴線をくすぐる。
堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』
たしかに藤井聡太や大谷翔平が活躍すれば「母の育て方」がメディアに躍る。ワンオペで頑張ろうとする若きシングルマザーが努力する様子がテレビドラマになる。いまなお、「母」は愛情の代名詞として使われている。人々はいまも、「母性信仰」とでも呼ぶべき幻想を共有し、「母親は自己犠牲的で献身的であることが望ましい」と唱える。
このような世間の「母」に対する共同幻想――母性信仰――は、娘たちに「母とは自己犠牲を払ってでも、自分を愛してくれる存在だ」という幻想を与える。
そして、その幻想が裏切られたとき、娘は傷つき絶望する。
現実には「理想の母」は存在しない
娘は母への幻想を捨てよ
三宅香帆 著
母だって完璧ではない。だからこそ、大人になれば母の規範は手放していいはずだ。しかし、日本の母性信仰は、「母は正しい」「母は自分を愛している」と娘たちを洗脳する。そして、「母は正しい」「母は自分を愛している」と思えば思うほど、娘は母の規範を手放しづらくなる。
こうした視点から考えたとき、今回挙げた「理想の母」の物語は、むしろ母への幻想を強化してしまうだろう。
自由で、破天荒で、非常識で、しかし言動は鋭く、愛すべき母――「理想の母」は、たしかに少女漫画の夢だ。しかし現実には、そんな「理想の母」はいない。現実を生きる娘たちに必要なのは、母の規範に気づき、それを手放すことである。