1919年2月15日号「新設会社善後如何」1919年2月15日号「新設会社善後如何」
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『戦時のわが財界は未曾有の好況を現出して、その結果は物価の大騰貴となり、また信用の激烈なる膨張となりたり。かかる物価の大騰貴が一朝にして下落に向かう以上、この一事すでに財界の絶大苦痛たるべきに、激烈に膨張せる信用がこれより縮小に向わんとす。わが財界は前途この二大打撃に悩まざるを得ず、すこぶる難渋なりと言うべし。
 かく財界多端の時に当たり、無数新設会社の経営難がさらに一層の波瀾を加うべしという、これは早きに及んでこれが善後を講ずるの必要あるべし。
 戦時に勃興したる新設会社は概ねその資本四分の一の払い込みによりて事業の一段落を画すべき計画なりしが如し。かかる計画にて進むものならんには、仮令へその事業に打撃を受くる事あるも、隠忍時の至るを待ち得べきも、その多くは借入資金をもってその事業を完成するの腹案なりと見え、信用縮小して借入資金を得るの漸く困難なるを悟りたる今日となりては、資金を株金の徴収に求めんとするの方向に転ずるもの少なからず、かくの如きは今日の財界に更に一難を加うるものと言うべし』

 新設会社の多くは過小資本だが、事業資金の借り入れは難しく、かといって株式市場からの資金調達も困難。むしろ既存の株主が保有株を投げ売りを始める可能性があり、それが株式市場に与える悪影響を懸念している。

【8】1920年
深刻化する戦後不況
財界著名人たちが述べた展望

 1920年に入ると、戦後不況が一層深刻になる。20~29年のGNP(国民総生産)成長率は年平均1.1%、卸売物価は年平均マイナス4%で、デフレ不況の様相を呈した。

 1920年6月11日号では、第一次世界大戦終結後の日本経済の行方について、財界の著名人インタビューを集めた特集を組んでいる。

 前出の福沢桃介の他、日本勧業銀行総裁・志村源太郎、東京商業会議所会頭・藤山雷太、三菱銀行常務・串田萬蔵(後の三菱銀行会長)、山一合一会社(後の山一證券)社長・杉野喜精、日清紡績(現日清紡ホールディングス)社長・宮島清次郎、日比谷商店(綿糸・綿花卸商)常務取締役・福原長太郎、奥村商会(蚕糸貿易商)・奥村鹿太郎、古河鉱業常務・浅野幸作など、匿名の大物も含めそうそうたる面々のインタビューが掲載されている。

 ここでは藤山雷太の談話の一部を紹介しよう。藤山は慶應義塾大学正科で福沢諭吉の薫陶を受け、三井銀行に入り、芝浦製作所、王子製紙の経営に携わる。三井を退職後、大日本製糖(現・大日本明治製糖)の社長に就き、同社を中心とする藤山コンツェルンを創立した。ほか、三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、17年から東京商業会議所会頭に就任していた。

1920年6月11日号「財界の前途如何」1920年6月11日号「財界の前途如何」
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『東京商業会議所会頭 藤山雷太氏談
 時局以来、通貨が膨張した。しかもその通貨は、資本化せられなかった。すなわち生産資金に用いられなかった。
 例えば労働者の懐に入った通貨、それが多少貯金されたものはあろう。郵便貯金などが増えているのはその証拠ではあるけれども、それは少額で、大部分は労働者の消費に供された。その結果、彼らの衣食住がぜいたくになった。すなわち麦が米となり、1枚の衣類が2枚となり、席亭行が芝居見物にじて、生活が向上し、消費が旺盛になった。
 しかも一方、膨脹した通貨が生産資金に用いられておらぬから、生産の増加が捗々(はかばか)しくいかぬ。そこで供給の不足を来たした。砂糖しかり、綿糸しかり、すべての商品が供給不足の状態に陥ったので、市価の暴騰を来たした。しかしてその市価の暴騰が、さらに色々の悪結果を生んだ。思想界の混乱、労働問題の紛糾、無謀なる事業計画の増進、投機思惑の向上は皆、その主因を物価騰貴に発している。
 そこで私どもは到底これを傍観していることができず、このままに放任しておけば大事に立ち至る。通貨を収縮し、民間に散在している通貨を是非とも、資本化さねばならぬと考え、その方法として(1)郵便貯金利子の引上、(2)少額公債の発行、(3)勧銀ならびに興銀の増資及び債券の増発を主張し、かつこれを宣伝するに努めた。
 ところが、私どもの主張は遺憾ながら行われなかった。しかして物価はいやが上にも騰貴し、騰貴して行き詰まり、行き詰って反動を惹起し、経済書に書いてある悪作用がそのままに実現された。
 私どもはあらかじめ事あるを慮ってこれが予防策を講じたのであるが、それが行われなかったのだから、今日の結果は当然と言わざるを得ないのである』

 創刊から7年。経済誌として確固たる地位を固めていることがうかがえる。

【9】1921年
業績好調を自賛する東京市電
その実態をバッサリ分析

 また、創刊以来の「そろばん主義」による企業分析の切れ味にも磨きがかかっていた。1921年8月11日号では「東京市電の窮状」と題した連載を開始している。

 11年8月に開局した東京市電気局は、現在の東京都交通局の前身で、東京市内の路面電車「東京市電」を運営していた。21年8月1日には市電経営10周年を記念して10年間の営業成績を発表するとともに、その内容を自画自賛する祝賀会を開いたという。

 ところが「ダイヤモンド」は、この発表数字を徹底的に分析し、実態はむしろ窮境にあることを誌面で訴えた。

1921年8月11日号「東京市電の窮状」1921年8月11日号「東京市電の窮状」
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『東京市の電気局では、今年の8月がちょうど市営実施の満10年に相当するというので、去る1日を以て記念祝賀会を開いた。けれども電気局の業績は、果たしてかかる太平楽なお祭り騒ぎをなし、自ら祝賀するに足るものがあろうか。
 電気局がこの機会を利用し自ら公表した統計によると、市営以来満9年間に、公債利子を支払って約709万9000余円の純益をあげているが、この内から必要な積立金のほか、兼営電燈部の欠損を補填(ほてん)せねばならず、その資産勘定に繰り入られた額は、僅々54万9000円に過ぎない。
 もっとも、この期間に於いて前後542万円の外債を償還しているから、前記709万円と合わせて1250万円の純益を得たことになるけれども、なお1年平均140万円足らずであって、その資本の1億に近い巨額に対比すると、その率は年平均2分にも達せぬのである。しかもこの純益なるものはただ、表面上の数字にとどまり、少し立ち入って研究すると、営業上の成績としては、殆ど無価値なものである。
(中略)
 要するに現在の市電は、営利主義からいっても大失敗であり、公益主義からみてもなおさら失敗で、ほとんど1つの取り所がなく、さなきだに(そうでなくてさえ)まったく気詰まりの窮境にある……』

 連載は4号にわたって展開された。各回の記事タイトルを引用すると、「不成績極まる営業状態 市民の蒙る損害と苦痛」「前途に横たわる二大困難 驚くべき怠慢の一実例」「車両不足の上車両を焼く 修繕遅滞の上工場を失う」「市電の不成績は結局、市営の不適当に基ずく」といった具合だ。

 そして、「特別会計を設けて厳重な会計検査を実施し、その上で、市営の損益計算を明らかにし、この計算上の経費を支払い、資本の利子および減損の十分な補填をなし、なお剰余を得て運賃の引下げおよび使用人の待遇改善の見込みがある場合において、はじめて市営を有利とするが、この見込みにして確実でない場合においては断じて市営は不可である」と主張し、民営への移行を促している。

 データとファクトに基づいた、何者にも忖度(そんたく)しないジャーナリズムの姿勢は当時も今も健在である。

【10】1922年
論客経営者が持論を展開
しばしば誌上論争も巻き起こる

 そして当時の「ダイヤモンド」は経営者や経済学者、政治家が誌上で持論を展開するオピニオン誌の側面もあった。

 1922年3月1日号には、鐘淵紡績(現クラシエ)社長の武藤山治による「現下の国民思想」と題された論説が掲載されている。武藤は、三井銀行から業績不振に陥っていた鐘淵紡績に送り込まれ、同社を再建し国内有数の大企業に育て上げた経営者だ。

「近来世の中では、不詳な事が起こるのが多いようで、なんとなく日本の空気が一種、不愉快に感じられる」との書き出しで始まり、時代というのはその時代の多数の人心によって形成されるが、「日本の現代思想はいかにも不健康である」と断じている。

1922年3月1日号「現下の国民思想」1922年3月1日号「現下の国民思想」
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『明治から大正にかけては富国強兵。何でも富まなければならない。何でも兵が強くならなければならないの一点張り、殊に日清、日露戦争などがあり、しかも戦争に勝ったという勢いで益々国民が、好戦国民になった傾向がある。ところで今度は世界戦が起こった。その影響を受けて、日本の思想界に大動揺を来たし、今日の現状になったものと考えるのである。 思想の動揺せる事は現に事実である』

 武藤は当時、富国強兵から民生の充実を図る方向に政治を一新すべしという提言を盛り込んだ『政治一新論』(21年、ダイヤモンド社刊)という著書を出版している。鐘紡社長時代から「ダイヤモンド」には多くの寄稿を行い、政治学者の吉野作造と労働問題について誌上論争を繰り広げるなど、その言論はしばしば物議を醸した。

 30年に鐘紡社長を辞した後は政界浄化を訴えて政界に進出したり、新聞経営に乗り出したりするなど言論活動も熱心に行った。経営していた「時事新報」では帝人株をめぐる贈収賄疑惑を報じ、背後で暗躍する財界人グループを告発し、政界を巻き込む疑獄事件(帝人事件)に発展した。疑惑報道からまもなく自宅前で銃撃され66歳で没したが、犯人の自殺により殺害の動機は明らかになっていない。

 ダイヤモンド社創業者の石山賢吉は、武藤について「強度の熱情家で、火の玉のような人であった」と評している(51年12月15日号)。