【11】1923年
関東大震災で本社も打撃
「震災と経済界」の緊急特集
1923年9月1日に大震災が関東を襲った。東京・日本橋蛎殻町にあったダイヤモンド社も、社屋の類焼こそなかったが印刷工場の設備が倒れ、電気、ガス、水道が途絶する。20日間の休刊を経て、9月21日になんとか復刊。「震災と経済界 震災と各社の打撃」という特集を組んだ。市場の動向と予想、各業界主要企業の被災状況と復旧見通しなど、40ページが丸々、震災の話題で埋め尽くされている。
自社の印刷機で定期購読者向けのみ5000部を印刷、大阪には海路で輸送し現地の郵便局から発送した。ごく一部を東京・丸の内で“呼び売り”したところ、たちまち売り切れたという。
特集冒頭は、被害の大きさに戸惑いつつも、決して悲観的になることなく、努めて明るく復興に取り組もうというメッセージとなっている。
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まず物資の大破壊を中心としての収縮作用が起こり、次いでその復旧を中心としての膨脹作用が起こるべき順序である。収縮作用の継続する期間と、その行われる程度とは、殆んど予測し難いが、(大正)9年の恐慌が7、8カ月にしてほぼ終了した経験から推せば、明年4、5月頃には一応安定すべきかと思われる。信用収縮の程度は全国組合銀行勘定において2、3割の間であろうか。そこまでいけばかなり徹底した整理が出来るであろう。
いずれにせよ、収縮の程度が強ければ強いほど、堅実なる基礎の上に、次の回復期を迎え得られる』
この「震災と経済界」「震災と各社」という特集は23年を通じて毎号掲載された。
【12】1924年
コメ、糸、砂糖、織物……
当時の国内主要産業の顔触れ
震災から10カ月を経た1924年7月1日号には、「名士の財界前途観」という26ページに及ぶインタビュー特集が掲載されている。下期の経済界の概況を各業界のキーマンに聞いていく恒例の特集だ。実に43人もの経営者が登場、事業の見通しを解説している。
「一般観測」として、日本勧業銀行(現みずほ銀行)・梶原仲治総裁、三菱銀行(現三菱UFJ銀行)・瀬下清常務取締役、東京電燈・神戸挙一社長、三越・倉知誠夫専務、松永安左エ門(東邦電力副社長)などが名を連ねる。
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下半期は金融が楽になり、従って一般景気も幾分立ち直るだろうという観測は、銀行家の間に行われているようである。毎年下期は貿易関係が有利になるのが例であり、一時期待された復興の各事業もとにかく捗々(はかばか)しくしくないので、この方面からする資金の需要もあまり起こらない。これらが金融引き緩みの原因となるのであろうと思う。すでに4、5月頃から、緩みかけていることは否み難い事実で、下期に入って、この傾向がさらに著しく現れるのであろうと観測される。
(中略)
震災後は、さしあたり必要に迫られたバラックや商店の建築でちょっと景気らしく見えたが、これも一段落を告げ、 先頃からちらちら不景気風が吹き初めたのではないかと思われる。仮にこの説の如くであるとすれば、不振期に入って直ちに回復することは絶対になく、金融が楽になっても、不景気は相当の期間続くものと見なければならぬ。株式界もやはり一両年は悪い傾向を辿たどることになろう。下半期の財界を楽観した心持ちで考えることは到底できない。ことに地方農家の疲弊、養蚕家の目下の窮状は、今後の不景気を一層助長する原因になりはしまいか、と思われるのである』
一般観測に続いては、業界別に主要企業の経営者が登場する。
興味深いのは、その業界分けだ。「株式界」「米界」「生糸界」「紡績界」「砂糖界」「毛織界」「製紙界」「セメント界」「石油界」「肥料界」「製粉界」の全11業界。これが当時の国内主要産業ということだろう。電機も自動車もまだ表舞台に出ていない頃の日本経済の実態である。
【13】1925年
不良債権化する「震災手形」
その後の日本経済に暗雲
1925年1月1日号の「財界概況」欄に「震災手形の日歩引下」という小さな記事が載っている。500字足らずのベタ記事だが、その後の日本経済の行方を左右する重要な記事となる。
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これらの残存震災手形は、整理困難にて、元金の回収は元より利子の収入すら停滞せるものなるは言うまでもなきことにて、これに対して高率の再割引日歩を課するは、いたずらに中小銀行の負担を重くし、ややともすれば却って整理の困難を増加する。かかる理由から先般来、二、三流銀行の間に、これが割引利子の引下げと併せて期限の延長につき、それぞれ運動中と伝えられていた。
政府当局もその事情を諒とし、取りあえずその利率を前記のごとく引き下げたわけだが、期限の方は1カ年延長の大正15(1926)年9月末日として、当該法律改正案を今度の議会に提出することに決定したらしい。さすれば同時に破産申請の停止期限も当然、同様に延長せらるることになろう。経済界を積極的に刺激するほどのことではないが、消極的に整理の促進を緩和するくらいの効果はあろう』
日銀は、関東大震災で被災した企業への救済措置として、震災のせいで決済不能に陥った割引手形について、再割引に応じて現金を供給した。上記の記事にあるように、その額は4億3000万円に及んだ。当初は、再割引した手形の決済期限は25年9月末日だったが、それが1年繰り延べになりそうだという内容だ。その後、決済期限はさらに1年、27年9月末まで延長された。
しかし、こうした措置は逆に不良企業の延命を助長することにもつながった。また震災手形の中には、震災と関係なく単に投機の失敗で決済不能となった不良債権も紛れ込んでいることが明らかになり、これら回収不能となった震災手形の蓄積が金融不安へと発展し、「昭和金融恐慌」へと突入していく。昭和金融恐慌については、本稿に続く昭和の回で触れていこう。
【14】1926年
物議を醸した過激タイトル
「ボロ会社の研究」号の大ヒット
そして1926年。大正最後の年である。長引く不況の中、4月に『ボロ会社の研究』と題された臨時増刊号が発行される。センセーショナルなタイトルワークも当時からの伝統といえるかもしれない。
巻頭には以下のような説明がある。
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事実においてはある時機においてその市価が払込金額以下に下だりいたるものを収め、その社の研究を試むる次第なれども、簡単にその事実を唱導しては切実に世人の注意を惹くに足らず、しかるにボロ会社の4字を使用したる次第を明らかにす。
しかるに掲げる会社にも玉あるべく、また石あるべし、これを研究並列するが本号の目的にする所なりと知るべし』
確かに「ボロ会社」とはいささか刺激的な呼称だが、株価が額面割れとなっている会社を「ボロ会社」と規定し、会社の実態を個別に分析し、その低評価が果たして妥当かどうかを検討したものだというわけだ。実際に当時、多くの企業の株価は払い込み額面以下に落ちており、死屍累々の異例のありさまだったという。全産業分野から全121社が対象となった。
巻末の「編集余録」にはこう書かれている。
しかも本号に収めしものは比較的世に聞きしもののみ。かの戦中戦後の好況時に濫設されし幾百幾千会社の成り行きを尋ねたらんには、いかに巨額の資本が濫費死滅せるかを察するに十分なるべく、本号「ボロ会社の研究」は一面、事業に志す人にも好参考たらんかと存ぜられ候』
掲載企業からは抗議も寄せられたようだが、この号は大ヒットを記録し、早々に増刷となったという。