人間には、願いが叶った先の本当のことは見えてはいません。
例えば、糖分を控えなければいけない病気の人が、その自覚のないまま、「あのガラスケースの甘いお菓子を今すぐに思う存分に食べられますように!」と必死に願い、望みが叶って山ほどのお菓子が手に入ったらどうでしょう? 病気が悪化して苦しみを味わうことになってしまいます。
逆に、どんなに願っても目の前にあるケースの中のお菓子が手に入らないという場合、それは「あなたの病気を悪化させるものだから、あきらめなさい」という「ご神仏のおはからい」かもしれません。
このように、ご神仏はその人が不幸になる願いには応えず、すぐに叶えることはなさいません。どんな人も良き方向に導きたい、守りたいと考えておられるからです。
結果的に幸せに導かれるスゴさ
そしてご神仏のスゴいところは、願った本人が、お菓子は手に入らないけど、何だか違うものが美味しそうに感じられ、それを食べてみたらすごく美味しくてお菓子以上の満足感を得られた。さらにはそれが病気の改善につながり、しばらくすると本当に甘いお菓子を食べることもできるようになっていた、というように結果的に幸せに導いてくださることなのです。
自分の執着に基づいて「何が何でも!」と願うのではなく、
「これが私にとって真の幸せにつながるのであれば、叶えてください。おまかせします」
と、ご神仏の導きにゆだねて願う気持ちが大切なのです。
ですので、叶わない時には理由があり、それもわからせてくださいます。
私の場合もそうでした。
必死に合格を祈った受験で…
若い頃、どうしても学びたい学問があり、その学部のある大学を受験しました。
当時、その学部のある大学は国内に3つしかなく、そのうちの1つを受験したのです。どうしても受かりたいがために、自宅から遠いけれども、合格確率の高い大学を受験しました。
その受験のために宿泊が必要となり、試験前日にホテルに泊まったのですが、部屋のサイドテーブルの引き出しから『仏教聖典』が出てきました。
普通であれば気にも留めず、それを手にして読むなんてことは、特に試験前日ならあり得ないことです。しかし、その時は何かにとりつかれたかのように、私は『仏教聖典』を手に取り、読みふけってしまったのです。
……なんと、何度も読み返して時間を忘れ、うっかり徹夜をしてしまいました。……で、入試は寺社にお参りして祈願していたにもかかわらず惨敗してしまいました。
でも、私はその入試をきっかけに、人生の大きなターニングポイントを迎えたのです。