いつまでも返信がないことを不審に思ったフビライは、再度、使者を派遣するのですが、またもや幕府はそれを無視したのです。

一見失礼に思える国書だが
モンゴルは日本を尊重していた

 フビライの使者が携えてきた国書とは、いったいどのような内容だったのか。簡単に要約するならば、そこには中華思想に基づいて「私のところに挨拶に来るように」「もし来なかったら知らないからな」というようなものでした。

 この国書に関して、「私のところに挨拶に来るように」という前半のメッセージと、「もし来なかったら知らないからな」という後半のメッセージのいずれに重きを置くかで、解釈はまったく異なります。

 歴史研究者による分析は非常に少ないのですが、作家の陳舜臣先生は、「表向きは丁寧だが、意味するところは、極めて無礼である」と述べています。また「銀河英雄伝説」シリーズで有名な作家の田中芳樹先生も、この国書は「極めて無礼で、日本側がどう対応しても日本に攻めるつもりだ」と書いています。

 陳舜臣先生も田中芳樹先生も、作家の方々は、表向きの丁寧さに騙されず、その中身・意図を読み込めとおっしゃっているように思えますが、しかし、私たち歴史研究者が文書を見る際に第一に押さえなければならないのは、その「形式」です。

 現代でも手紙を書く際には、「拝啓」から始めて、「敬具」で終わるように、文書には一定のルールやマナーというものがあります。国書においても、それを見る際にはこうした一定の形式を踏まえて読まなければなりません。

 そこで、フビライの使者が携えてきた国書を見てみると、最後に「不宣」と書かれています。これは自分が高く評価している相手や友人などに使うような言葉で、相手を低く見ているときなどには絶対に使わない言葉です。

 モンゴル側からこのような形式の国書が来るということ自体、モンゴルが日本をそれなりに尊重していたと考えるのが自然でしょう。

当時の日本人は国際感覚を喪失
無礼な態度にフビライが激怒

 フビライが日本を侵略・征服しようとはしていなかったもうひとつの証拠として、フビライから派遣された使者・趙良弼の記録が残されています。そこには、およそ、次のように記されていたのです。