鎌倉時代に発生したモンゴルのフビライ・ハンによる襲来、元寇。突然、日本を征服しにきたというイメージも強いが、実は元寇は鎌倉幕府の既読スルーが原因だった。本稿は、本郷和人「喧嘩の日本史」(幻冬舎新書)の一部を抜粋・編集したものです。
何度も使いを送ったフビライ
返信もおもてなしもしない幕府
モンゴルの襲来のような外国との関係に関する外交史というのは、日本史の分野ではそこまで議論が進んでいないのが現状です。ですから二度の元寇を考える上では、日本史よりも東洋史やモンゴルの歴史研究を参考にすべきだと私は思います。
たとえば、モンゴル史研究を専門とする京都大学名誉教授の杉山正明先生は、「モンゴルのフビライ・ハンは、もともと日本を本気で攻めようとは思っていなかったのではないか」と述べています。
このとき、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハンは、中国大陸に元という国をつくり、初代皇帝になろうとしていました。中国大陸における伝統的な王朝の皇帝に即位する際に、フビライが重視したのは、東アジア世界に影響力を持つ中華思想でした。
中華思想においては、伝統的に中国の皇帝とは、徳の高い人物が即位するものであり、東アジア周辺の国々は、中華の皇帝の徳を慕って挨拶に来るという世界観があります。この思想によって古来、中国で成り立ってきたのが「冊封体制」でした。
東アジアの国々は、中国王朝の「朝貢国」になります。中国は周辺諸国を自分たちの配下に置くことができ、朝貢国として認められた各国の王たちは、中国の皇帝という強力な後ろ盾を得ることができるのです。朝鮮やベトナムは中国の朝貢国であったため、元号や文字などは、中国王朝と同じものを使用しました。
日本は、この冊封体制に完全に入ることはありませんでしたから、中国とは異なる元号や文字を用いています。
フビライもいきなり、日本に攻め込んで来たわけではありません。襲来の前に、日本へ何度か使いを送ってきているのです。
モンゴルからの使者が携えてきた国書は、大宰府から京都の朝廷へと送られ、文章博士の菅原長成が返書の草稿を書くこととなりましたが、鎌倉幕府がストップをかけました。
幕府は、「対外的な交渉は自分たちで行うので、朝廷はおとなしくしていてください」と主張したのです。その後も幕府は国書に返信しないどころか、モンゴルからの使者をもてなすこともしませんでした。