「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が3月1日に刊行される。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な戦争・反乱・革命・紛争を、「地域別」にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。元外務省主任分析官である佐藤優氏も絶賛の声を寄せる本書の内容の一部を、今回は特別に公開する。

【なぜ争った?】元が鎌倉幕府に朝貢を拒否されて九州に攻め入った

 モンゴル帝国の「」が、日本の九州に攻め入ったのが元寇です。その侵攻は2回あり、第1回を文永の役、第2回を弘安の役と呼びます。

 13世紀初頭にモンゴル高原にチンギス=ハンが登場し、中央アジアから南ロシアまでを一気に征服しました。チンギス=ハンの後継者たちもヨーロッパ方面に遠征し、さらには中国の金を滅ぼすなど、ユーラシア大陸の広範囲にわたる大帝国を築き上げました。

 チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンの治世には、国号を「元」に変え、当時、朝鮮半島を支配していた高麗を服従させ、日本に対しても何度も朝貢を要求してきました。

 しかし、鎌倉幕府の8代執権、北条時宗がこの要求を拒否します。そこで元は、高麗の軍も含めた約3万の兵で現在の長崎県にある対馬、壱岐を攻めた後、そのまま九州北部に向かいました。これにより、元寇の第1回である文永の役が起こりました。

【どうなった?】2度にわたる侵略も元軍が敗北。日本の征服を断念

 幕府は、九州に領地を持つ御家人たちを動員して元軍を迎撃しました。しかし、元軍が優れた兵器で集団戦を仕掛けてくるのに対し、日本軍は「やあやあ我こそは」という一騎打ち戦術だったために苦戦を強いられました。

 しかし、元軍も被害が大きく、内部対立などもあって撤退しました。これが文永の役です。その後、幕府は元の再襲来に備えて、九州北部の要地の警備を九州の御家人に課し、異国警固番役を大幅に整備するとともに、博多湾沿いに石造りの防塁を築かせました。

 一度は追い返された元軍でしたが、当時の中国王朝の南宋を滅ぼした後、再び日本征服をもくろんで、今度は約14万もの大軍を率いて九州北部に向かいます。

 しかし、博多湾岸への上陸を阻止されている間に暴風雨が発生し、大損害を受けた元軍は再び敗走することとなりました。これを弘安の役と言います。この2度にわたる元軍の襲来を、「蒙古襲来」または「元寇」と言います。

 その後も元は日本征服を諦めませんでしたが、フビライ=ハンが亡くなって以降、一度の交渉を最後に、日本の征服は断念されています。