また、先述したように、鎌倉幕府はモンゴルの使者と国書を再三にわたって無視し続けました。そのために、フビライは怒り、出兵を決意したわけです。

英雄視される北条時宗は
中国の高僧から見放されていた

 なぜ、鎌倉幕府はそのような頑なな姿勢を取り続けたのでしょうか。当時の鎌倉には、中国から高僧がやってきて暮らしていました。建長寺を建てた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や兀庵普寧(ごったんふねい)らは、執権の北条時頼の招きで鎌倉にやってきています。北条時頼は、こうした禅僧と対話ができるほど賢い為政者だったのでしょう。

 その時頼が亡くなった跡を継いだのが、長時、政村、そして北条時宗でした。時宗の時代に元寇が起きるわけですが、しばしば時宗は、モンゴル軍を撃退して日本を守り抜いた救国の英雄のように言われます。特に戦前は高く評価され、歴代の北条氏のなかでも知名度の高い人物です。

 この時宗が、まさにフビライからの国書を無視し続けた張本人なのですが、時宗の代になると兀庵普寧は、なんと「自分の理解者はもういない」と言って中国へ帰国してしまったのです。

『喧嘩の日本史』書影『喧嘩の日本史』(本郷和人、幻冬舎新書)

 時頼と親しかった兀庵普寧は、子供の頃の時宗と接することもあったでしょう。時宗が目から鼻に抜けるような賢い子供なら、兀庵普寧もそんなことは言わずに、「よし、この子を育ててみよう」と日本に残ったかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。

 中国から来た僧は、自分の祖国が異民族であるモンゴルに侵略されてしまったため、モンゴルのことを恨んでいたという人もいます。そのため、日本人をたきつけて、モンゴルと戦わせたのだというのですが、当時の日本にそこまでの力はなかったと思います。

 ですから、北条時宗と当時の鎌倉幕府が何を考えていたのか、今ひとつわからないのです。ただ、稚拙ながら外交努力を試みようとした朝廷に対して、北条時宗をトップとする鎌倉幕府は、待ったをかけつつも、何もしないまま放置してしまいます。まさに既読スルーされたフビライは、メンツを潰され、カチンときたことでしょう。

 日本は「喧嘩」を売ってしまった格好になりました。そしてとうとう、文永11(1274)年の文永の役で、フビライは日本に兵を送り込むのです。