「勤勉」は、必然的に「他人に頼らない精神」を求め、万事に「自助努力」を促したので、経済活動ではそれがプラスに働いたのは言わば当然ですが、それが、生きる上での「誇り」や「満足感」にも繋がっていったことは、注目されて然るべきです。

 ことほど左様に、「働く」という言葉を、1つの価値観に基づいて画一的に規定してしまうことは、極力避けるべきだと思います。

「働く」「遊ぶ」は億劫になるが
「学ぶ」はさして苦痛ではない

 考えてみれば、「働く」とか「労働」という言葉は、捉えどころのない言葉ですが、「遊ぶ」という言葉も、同様に全く捉えどころがありません。この両者に共通なのは、「休息」とか「無為」とかいう言葉の対極にあるということです。

 子供は一時もじっとしておらず、いつも走り回っています。これは普通、「遊んでいる」とみなされますが、大人たちの「遊び」とはずいぶん違っていて、どうやら「本能のなせる業」のように思えます。

 一方、老人たちはといえば、子供たちの正反対で、とにかく動くのが億劫のようです。これは身体中の細胞がすでに若い頃とは異なった状態になっていて、少しでも動くと、「疲労」という明らかな「苦痛」を、すぐに伴ってしまうからでしょう。

 ですから、歳をとると、「働く」のが億劫になるだけでなく、「遊ぶ」のも億劫になるようです。

 これに対して、「学ぶ」がさして苦痛ではないのは、「学ぶ」は「身体」の動きをあまり求めず、必要なのは「頭脳」だけだからでしょう。「頭脳」は「身体」に比べ、使うのをやめてしまいさえしなければ、年齢による衰えは比較的緩やかなようです。