だって、そうじゃないか。およそ、活字メディアから富を得て、活字メディアに還元していく仕事をしておいて、ここ数十年に出された本しか扱ってない新刊書店だけを相手に事足れりと涼しい顔をしているなんて、またそれを恥とも思っていないなんて、魚にさわれない寿司職人みたいなものじゃないか。雲を見ると眠たくなる航空機パイロットみたいなものじゃないか。カタカナ言葉を拒否する経済アナリストみたい……えっ、もういいですか、こんなもので。

 とにかく、これからおいおい書いてはいくが、古くは平安時代あたりから、つい昨日出版された本まで、あるいは書店には並ばなかった非売品の本までも扱うという意味で本当の意味での本屋とはじつは古本屋のことなのだ。

 しかも、そこには古今も東西も超越した、ありとあらゆる本の中から、店主の眼力と個性によって選ばれた本が、いかにして客の手に取らせるかを考えて並べられている。混沌の中から結晶を導きだし発光させるわけだ。つまり、古本屋の店主は編集者でもある。客は読者といってもいい。

 そこのところを重々わきまえた上で、あまり古本屋になじみのない人に向けて、ぼくの知識と経験のいっさいがっさいをここに惜しみなく披露しながら、古本ツアーへみなさんをお誘いする。長いがここまでがリードだ。本編はここから。

古本屋の店主は
どうして無愛想なのか

 そうはいっても、古本屋を敬遠する気持ちもわかるのだ。まずは、なんといっても古来からある古本屋というイメージがあまり芳しくない。

 集客をはなから無視したような素っ気ない店構え。ガタピシとにわかに動くことを拒否した入口のガラス戸。中は薄暗く、湿気とカビと埃の混じったような、独特の空気が漂う。ブンブンと低いうなりを上げて、今にも消えそうな蛍光灯。そのまわりを鱗粉をまき散らしながら飛ぶ太った蛾。

 正面の帳場には、この世の幸福と歓びを生まれたときから捨て去ったような、険しい顔の老人が、猫なんか抱いて座っている。背の壁には、誰が書いたか、何と書いてあるかわからない色紙額。客の気配を感じ、ずらした眼鏡から、上目遣いに、こちらの心臓を刺すような視線が飛ぶ。知らず知らずあなたの足は震え、泣き出しそうになる。