古本屋の店主はどうして無愛想なのか?「ビジネスの仕組み」知ったら腑に落ちた!写真はイメージです Photo:PIXTA

古本屋の本は、新刊書店のように出版社に返品することはできない。つまり古本屋の本は、店主の蔵書のようなものなのだ。しかし昨今は古本屋の本を粗雑に扱う客があまりにも多いのが現実なのである。そして店側に嫌われる客の種類とは、はたして──。本稿は、岡崎武志『古本大全』(筑摩書房、ちくま文庫)の一部を抜粋・編集したものです。

一日に一度は古本屋へ
重度古本病感染者の日常

 まず私という人間が、1日に1度は、古本屋の軒先をくぐり、古本の匂いをかぎ、棚に並んだ背の文字を目にやきつけないと、身体の調子がおかしくなる人種だということを、申し述べておかねばならない。お通じのない日はあっても、古本屋へ行かない日はない。

 今日は何かが出そうだと予感があると、雨が降ろうが、槍が降ろうが、宝くじの当籤券が降ろうが、一目散に「ふ」のつく楽しい場所へ駆け付ける。予感がはずれたらはずれたで、なにがしかの拾いものを見つけては腕に抱えて家路をたどるのだ。

 つまり、ほとんどビョーキである。

 だから初対面の人と話をしていて、どこに住んでいるかという話題になったとき、相手が「○○です」と答えたら、ついつい「あ、○○なら××書店がありますね」と、聞かれもしない所在地の古本屋を挙げてしまう。

 たいてい、相手は「?」という表情をし、返答に困っている。興味のない人にはまったく目に入ってこないものだ、古本屋は。(しまった!またやっちまったい)と、あわてて「パピプペパピプペパピプペポ……」などとごまかすことになる。

 重度古本菌感染者である私にとってはほとんど信じられないことではあるが、ときどき、ライターや編集者のなかにも、「古本屋って行ったことないんです」などとのたまう輩がいる。「だって、人がさわった本なんてばっちいじゃないですか。本は新刊書店で買うようにしています」なんて、平気で言う。恥じらいもなく!

 そんなときぼくは、「あっ、そう」と何食わぬ顔で返事はするが、心の中では(そんなに手を汚すのが嫌いやったら、宝石店にでも就職しなはれ。それから、今からお札やつり革には絶対さわったらあきまへんで)と激しく軽蔑することにしている。

他人の手垢にまみれた
古本が放つ「時代のつや」

 だいたい、手垢で死んだ奴など過去にいないはずだ。かの谷崎潤一郎だって、「陰翳礼讃」の中でこう言っている。

 われわれ(注/日本人を指す)は一概に光るものが嫌いという訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどというとよく聞こえるが、実をいえば手垢の光りである。

 どうだい、これでも古本なぞ触れないと言い張るつもりかい。谷崎にケンカを売ろうってつもりかい(誰もそんなこと言ってません)。