両親の介護が重なる
「この環境で子どもは難しい」
じゅんこさんが不妊治療を始めた時、すでに実家の両親の介護が始まっていた。
父親は脳梗塞と心筋梗塞の後、下半身が不自由となったが、思うように動かない体を受け入れられずデイサービス先でトラブルを起こしがちで、実家で介護をしていた。母親は同じ時期に脳梗塞を発症し、言語障害に。赤ちゃんのようになり、じゅんこさんが実家から家に帰ろうとすると「帰らないで」と泣いた。
じゅんこさんは4人姉妹の長女。実家には末の妹が同居していたが、妹が1人で支えるのは無理だった。3番目の妹は18歳で娘を産み、夫婦ともに入退院を繰り返していた。妹は精神が不安定になりオーバードーズ(薬の過剰摂取)を繰り返していて、妹の夫もアルコール依存の状態。めいっ子が14歳のときに、妹は入院先で亡くなり、2年後に義理の弟も亡くなったため、じゅんこさんはめいの面倒も引き受けることになった。じゅんこさんとRさん、そしてめいの3人暮らしが始まった。
夫のRさんは結婚後独立し、昼は工場勤務をしつつ、夜にリサイクル業を始めた。1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争の後でイランは混乱し経済も低迷、母国に仕事はなかった。Rさんは仕事で得た収入をイランに送金し、来日した兄の大学の学費を工面するなど、家族や兄妹の面倒をみていたが、事業はまだ不安定で、寝る間も惜しんで働いていた。
介護と仕事の両立は大変で、当時の記憶があまりないほどだという。朝3時に起きて4時に実家へ。その後会社に出勤し、残業をした後に夜10時ごろ実家に戻り介護する。夜中にRさんが迎えに来て帰宅する――という日々。
「玄関で気絶するように倒れてしまい、めいに運びこまれたことも。体力的にも難しくなり、仕事は派遣に変えました」
ストレスがかかりっぱなしで休息もままならない日々。「そんな状況で不妊治療をしても授かるわけがなかった」と振り返る。子宮外妊娠の後、この先どうするかRさんに相談した。
Rさんはイランに暮らす母に電話をかけた。Rさんが信仰するイスラム教では、信者が人生で迷ったときには、神様の言葉がつづられているコーランを指針にする。いま何に悩んでいるかはあえて伝えず「モスクに行って祈りをささげ、教えを請うてほしい」とお願いした。
その結果、義母からは「無理をしないこと」という返事が返ってきた。その段階になってRさんは、2人が不妊に悩んでいることを告げたが、義母も「体に負担をかけてまでじゅんこさんが無理をすることはない」という考えだった。 「無理はやめよう。僕たちには面倒をみる人がいるから」というRさんの言葉にじゅんこさんも納得した。
「親のことがあるし、めいのこともある。Rの仕事だって大変で、いまの状況ではたとえ赤ちゃんを授かっても新生児の面倒をみられるわけがない。体力的にも精神的にも限界だったから、子どもが欲しくても授からなかったのかなと思いました」
両親は入退院や施設入所、退所を繰り返し、父は87歳、じゅんこさんが49歳のときに亡くなり、それから2年後に母も87歳で亡くなった。