地域や行政との関係づくりや
予算規模、スポンサー集めは?
――地域や行政を巻き込むプロジェクトは、さまざまな意見が出たり、複雑な制約や暗黙の慣習があったりすると思うのですが、進めるにはとにかく根気よく話し合いをしていくのでしょうか。
そうですね。もちろん、何度も話はします。いつもこのような服装をしているのは、毎日いろいろな人に会うので、無難なんです(笑)。でも、話し合いだけで理解してもらうことはやはり難しい。それは初めから予見できることですから。何を言われようとしぶとく、こちらがダウンせず、根気よく言い続けてとにかく少しずつ進める。そして実際にやるところまでこぎつける。
結局、やってみて楽しいかどうかなんです。芸術祭は何より皆が楽しんでくれます。楽しければ次は賛成してくれます。通勤電車や会社の中で隣の人の顔色ばかりを伺っている生活よりも、「こんにちは」「いらっしゃい」といったあいさつが交わされる生活のほうがいい。
そうやって、辛うじてここまでやってこれました。今年で芸術祭は6カ所になりました。「大地の芸術祭」「瀬戸内国際芸術祭」「内房総アートフェス」「北アルプス国際芸術祭」「奥能登国際芸術祭」、そして「南飛騨Art Discovery」も始まりました。
――芸術祭はどのくらいの費用がかかるものなのでしょうか。また、スポンサーはどのように探しているのですか。
実際、担当者がいろいろと苦労してやっているはずですが、多くは企業側からアプローチしてくれるんですよ。芸術祭を始めた頃と比べ、今は非常に多くの人が関わってくれるようになりました。これまで企業が、メセナ(※文化・芸術活動の支援)や社会貢献と言ってきたものが、今はすごく概念が変わりましたね。
トヨタも自動車を造っているだけではだめですし、三菱地所も貸しビルを造っているだけではもうだめです。エリア全体をどのようにすべきかという大きな課題に向き合わなければいけないんです。あるいは、その会社が社会に存在すべき理由や文化がないと会社自体が経営できません。そのような文脈で、企業が次々と興味を持ち始め、意識的にこうした芸術祭に関わろうとするようになりました。企業も自分たちの社会の中での立ち位置が理解しやすくなるのだと思います。
今、日本は地政学的な利も活かせず、給料も上がらないなど経済がうまくいっていない。そうした中で、私たちが暮らしている地域がどういうふうにできてきたか、今一度、立ち返ってみようという動きが活発化している。企業もそういうことを考え出しているわけです。
それに、これまでていねいにいろいろなことをやってきているので、積み重ねもあるのだと思います。「あそこでやっていたね」とか「知っているよ」「行ったことがあるよ」とか、企業側も芸術との壁を超えやすくなっている。アーティストもかなりの数の人が関わってくれるのは、われわれが手がける芸術祭はちゃんとしているぞといった口コミによるところが大きい。
「大地の芸術祭2024」は、準備の2年と本番の年、その3年間で約6億3000万円かかっています。十日町と津南町が出しているのは、約1億2000万円です。全体の20%。残りの80%は、訪れてくださる方たちが購入する(鑑賞用の)パスポート(約1億5000万円)、寄付・助成・協賛(約1億4000万円)、国庫補助金(約2億2000万円)でまかなわれています。今日(※取材日)もここで大地の芸術祭のオフィシャルスポンサーたちの会合が2年ぶりに行われます。
昔と比べて今はこうしてやってこれるようになってきた。もちろん今も熾烈(しれつ)ですし、展望も不透明です。多くのお金を使って行われることを訝(いぶか)しく思う人もいます。でも広大なエリアに対応していること、地域が将来的に自立するためのきっかけとなっていること、そのために存在感を示さないといけないことなど、芸術祭のこれまでの経緯を鑑みると、理解していただけると思います。
奥能登国際芸術祭の開催地が被災
「能登半島について想い続けてもらいたい」
――奥能登国際芸術祭は、今年(2024年)1月の地震で大きな被害を受けました。昨年、芸術祭を訪れていたので、その後がとても気になっています。
そうですね。大変なことが起こりました。一方で、驚くべき動きもあります。芸術祭を訪れた人は、災害の報道で映し出される方々が、訪れたときに応対してくれた人たちであることに気づくわけです。開催エリアも広くはありませんからね。場所も自分たちが実際に訪れたところなので、自分たちが暮らす地域から遠く離れた場所で起きた災害でも、非常にリアリティがある。
昨年(2023年)11月ごろに経済同友会の方々がこの芸術祭を訪れてくれましたが、災害が起こった後、能登半島の支援活動に名乗りを上げてくれました(※「能登半島地震支援イニシアティブ」を発足)。芸術祭に人々が訪れれば、その地域を知ってもらえるんです。
――「奥能登珠洲(すず)ヤッサープロジェクト」を立ち上げましたね。
現地のニーズに応じた、片付けや修復、作品の修繕や撤去などの活動を行うものです。毎週うちのスタッフが現地を訪れています。とくに、今後、長期スパンで現地の定点観測を行い、状況を発信していこうと思っています。大きな災害ですので現地で私たちができることは限られていますが、こうした定点観測は私たちにしかできないので。5年、10年と続けていくと、意味が出てくるはずです。
――奥能登国際芸術祭を訪れた人は、現地の被害状況や復興状況はもちろんですが、作品が今どうなっているのかも気になっていると思うんです。ですので、そうした報告があると過程がよくわかってありがたいですね。
「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」の小冊子があって、つねに持ち歩いています。
能登での芸術祭は当面はできるとは思っていません。豪雨災害も起きてしまっていますからね。でも、芸術祭の開催地である珠州市(すずし)、そして能登半島について想い続けてもらいたい。
ですから、これを一人一人、手渡しで渡しているんですよ。
――拝見してもいいですか。ここ(小冊子内)に描かれたこれらの絵は、弓指寛治さんの絵ですね。
はい。弓指さんが地震後に珠洲市を訪れ、海岸や町、人などの風景を描いたものです。
――「南飛騨Art Discovery」は今回のみなのでしょうか。または今後も続いていくのですか。
どの芸術祭も、ほぼすべて基本は一度きりなんです。その都度、地域の議会で認められないと開催はできない。南飛騨Art Discoveryが今後も続くかどうかはわかりません。でも私たちとしては、手がける芸術祭は定期的なペースでやっていきたいと思っています。
――北川さんが手がけられたアートプロジェクトに、東京都立川市の「ファーレ立川」(※)がありますね。地方と都市とでは、こうしたアートの意味合いも違ってくるのでしょうか。
※東京都立川市の立川基地跡の住宅都市整備公団(現・都市再生機構)による再開発でのアートプロジェクト。大正時代以来、日本の空の玄関になっていた立川に戦後造られた米軍基地が1977年に返還され、その跡地の一部を再開発し、現在に至る。アーティスト92人による109点の作品が導入されている
地方には地方の課題があり、一方で、都市には都市の課題があります。私たちの芸術祭の原始はこのファーレ立川にあります。1994年にオープンし、今年で30周年を迎えました。ファーレ立川を見た新潟県庁の方から「美術館ではない広場や道路などの公共の空間を使ったパブリックアートを、地域づくりの要素としてはどうか」と声をかけられたのが、大地の芸術祭のきっかけですからね。
(近日公開予定のインタビュー後編「ファーレ立川編」へ続く)