「ええと、つまり、単独の道具は存在しないのだから……、死によって他との関係性が断ち切られて私が単独になれば、私はもはや道具ではなくなる―ということでしょうか」

「そうそう、その通りだ。ではもうひとつの『死は代理不可能』の話をしよう。まずそもそも道具とは、本質的に交換可能なものである。たとえば、スプーン、皿、テーブル―これらは道具としての機能や役割を持つモノであり、それゆえに交換可能であるわけだが、このことから『すべての道具は交換可能なものである』と言うことができる。そして、これを逆にすると、『交換可能でないものは道具ではない』と言えるのだが、ここまではいいだろうか?」

「はい、大丈夫です」

 ようは、「すべてのカラスは鳥である」のであれば「鳥でないものはカラスではない」と言うことができる、という単純な論理の話なのだろう。落ち着いて考えればそんなに難しい話ではない。

「さて、先に述べたように、死においておまえは『代理不可能』な存在である。『代理不可能』とは、すなわち『交換不可能』ということ。つまり、おまえが道具ではなかったことが明らかになるのだ。『死』だけが、それを教えてくれる。『死』だけが、おまえが交換できない『かけがえのない存在』であったことを思い出させてくれる。

 なぜなら、『死』とはおまえ固有のものであり、代理不可能な、おまえだけの問題であるからだ」

「死とは、私固有の……私だけの問題……」

死が差し迫ったとき、人は何を考えるのか?

「さあ、今までの話を踏まえて、もう一度死に向かい合って考えてみてほしい。死が差し迫っているとしたときに、他人の視線を跳ねのける強い言動ができるとおまえは確信できたわけだが、その理由はいったい何だったのだろうか?」

「……そうですね。うまく言葉にできないのですが、思い浮かんだ単語をそのまま話すと……『そんなことより』という感覚でした。自分が消えて無くなる、その重大な出来事に比べたら、『他人の視線』が急に些細なことのように思えたのです」

「ほうほう、なるほど。『そんなことより』―よい表現だな。では、なぜそう思ったのか? それは、端的に『死を突きつけられ自己の道具性が破綻した』からではないだろうか。仮におまえが、自分自身を交換可能な道具的存在だと思い込んでいたとしたら、『他者の視線(世間)』は相変わらず無視できるものではなかっただろう。

 なぜなら、道具としての存在意義を規定するのが『他者の視線』であるからだ。賢い人間に思われたい、面白い人間に思われたい、有能な人間に思われたい、などなど。自分がそういう機能を持った有益な道具であることを証明し安心や自信を得るためにも、『他者の視線』による承認は重要であり、それこそ生殺与奪権を持っているかのような強大な影響力を持っていた。

 だが、死においては、自己の道具性が破綻する。まさに、その瞬間、『他者の視線』は影響力を失い、人間は本来のあり方について問いかけ始めるのだ」

(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第4章を一部抜粋・編集したものです)