秀吉の「唐入り」の真相は?

本の虫課長 豊臣秀吉は激怒し、1587年に「バテレン追放令」を発令。宣教師たちを国外追放し、人身売買を禁止します。わざわざスペインやポルトガル側へ征明構想を伝えたのも、「おまえたちが日本を使って明を征服しようとするのなら、われわれが先に征服してみせるから見ておけ!」という威嚇やけん制の意味合いが強かったというわけです。

渡辺フミオ 過激ですが、日本を守るために秀吉も必死だったのかもしれませんね。

本の虫課長 そうでしょうね。信長との野望を果たしたかったというのもあったのかもしれません。もちろん、侵略行為には変わりませんが。秀吉に関する史料を研究した結果、秀吉のいう「唐の都」は北京付近ではなく港湾部の「寧波」付近、「天竺」は「東南アジア」を指していたのではないかという説もあります(参考文献:武田万里子『豊臣秀吉のアジア地理認識「大唐都」はどこか』)。その場合、欧米列強のアジアの拠点を奪い、アジア進出を阻もうとしたという秀吉の意図が見えてきます。

泉岡マリ 秀吉の「唐入り」もあながち誇大妄想とはいえませんね。なぜ、今までそうした研究がされてこなかったのですか?

本の虫課長 キリシタンに関する研究というのは、これまでカトリック系の大学がリードしてきました。ラテン語の文献が読めますからね。宣教師を追放したり、キリシタン大名を弾圧した秀吉や徳川政権をよく書こうとは思わないですよね。第2次世界大戦後も、他国を侵略した晩年の秀吉を深く研究しようとはしませんでした。歴史研究というのは日々、新たな発見が生まれています。そのため、一つの視点だけでなく、多くの視点から史料を読み解き、時には組み合わせて、全体を俯瞰して真実を導き出さないといけません。

渡辺フミオ これらの説もまた、しばらくすると新しい史料が見つかって、ひっくり返るかもしれないということですか?

本の虫課長 もちろんそうです。大切なことは、「この話は本当だろうか?」と疑問を持つことです。そこが定説を覆すスタート地点であり、歴史の楽しさでもあります。

渡辺フミオ ビジネスでも同じかもしれませんね。使い古された発想を適用するだけでは新たなビジネスは生まれない。

本の虫課長 その通りです。さて、結局、朝鮮出兵は失敗に終わりました。しかし日本の軍事行動をスペイン勢力は警戒し、フィリピン総督はマニラに戒厳令を敷きます。アステカ王国とインカ帝国はスペイン軍に王を捕らえられたことで崩壊しました。

 一方、日本は長らく戦国の世。戦国では国王の権威は失墜し、鉄砲を備えた重装備による戦闘は日常茶飯事です。ようやく全国を統一した王が現れたと思ったら、バテレン追放令。そのためイエズス会は武力による日本征服を断念します。そして草の根的な布教活動によってキリシタンを増やす戦略へと方向転換しました(参考文献:高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』)。また、1603年にはイエズス会日本支部の要請を受けたポルトガル国王が、日本人の奴隷取引を禁止します。