需要が見込めず凍結された
国鉄時代の「智頭線」構想

 地方鉄道の苦境が唱えられる中、なぜ智頭急行は成功したのだろうか。

 山陽と山陰を連絡する「智頭線」の構想は明治時代から存在したが、1922年4月に成立した改正鉄道敷設法で、敷設予定鉄道路線として位置付けられたことで整備は「公約」となった。

 鉄道敷設法は鉄道整備の基本方針を定める法律として1892年に制定され、同法に基づき全国の幹線網が整備された。旧法の予定線のほとんどが完成し、地方における支線の建設要望が高まったことから、次なる目標として149線を追加したのがこの法律だ。

 以降、予定線を列挙した別表に基づいてローカル線が順次、建設されていった。しかし、1960年代に入って、陸上交通における鉄道の独占的な地位が失われ、国鉄の経営悪化が問題になると、政府は国鉄から新線建設業務の一部を分離し、日本鉄道建設公団を設立した。

 競争力を失ったローカル線の建設に疑問の声があがっても、鉄道公団のもとで予定線の建設は続行された。智頭線も地元で熱烈な建設促進運動が繰り広げられ、1961年に予定線から調査線、1962年に工事線に格上げが決定。鉄道公団の手で1966年6月に着工した。

 しかし、1970年代に入ると国鉄の赤字はいよいよ危機的状況に陥った。1980年に国鉄再建法が成立すると、輸送密度が少ない特定地方交通線の廃止と、需要が見込めない建設路線の工事凍結が決定した。

 1980年3月末時点で用地買収95%、路盤工事93%、軌道10%まで工事が進んでいた智頭線も、需要予測が基準にわずかに達しないとして凍結の対象となった。

 だが、廃止・凍結の足切り基準は国鉄による全国画一の経営を前提としたものだ。地域密着経営で事業が成立可能と判断された路線は、地元出資の第3セクターが経営を引き受ける条件で、路線の存続または建設の再開が認められた。

 智頭線を引き受けるため、1986年5月に設立されたのが智頭急行である。とはいえ、上郡と智頭を結ぶだけのローカル線では生き残りは困難だ。そこで同社は、「大阪と鳥取を結ぶ高速幹線ネットワークの構築」というコンセプトを経営の中心に据えたのである。