自分が何かしてあげないと
推しが活躍できない!?
昨今のエンターテインメント市場においては、競合コンテンツと比較されることよりも、AKBでシングルCD選抜総選挙が行われたように、同一コンテンツ内(グループ・作品)で人気投票のように競われることが多くなった。
人気のあるメンバーは、メディア露出やグッズ展開の機会が増えるため、ファンは投票をしたりグッズ販売成績を伸ばしたりすることで「推し」を応援する。それにより、ファンは推しの活躍を目にする機会が増えるため、結果的にメンバー、ファン両者にとってウィン・ウィンの関係となる。また、残念ながら人気のないメンバーであっても、ファンはロイヤリティの高い消費者として、その周知、存続のために献身的に努める。
この「推す」という心理には、ファン側の主体性が必要になると筆者は考える。
読者の方々にも好意を持っている芸能人がいるかもしれないが、テレビに出演していれば視聴するといったように、受動的な行動の範囲で留まっている人が大半なのではないだろうか。そして「ファン」という言葉を、ロイヤリティのある熱心な愛好者という意味ではなく、気軽な好意を表す言葉として使用しているのではないだろうか。
多くの消費者は、自身とその芸能人の間に接点の意識を持ってはおらず、自分が何もしなくてもその芸能人の人気があればテレビに出続けることができるし、彼らの活躍は自身の生活に何ら影響を及ぼさない、と考えている。
我々の日常にはエンターテインメントが深く根付いており、芸能人に対する好意はエンタメ消費の一環にすぎない。好意を持っていたとしても、その芸能人のグッズやCMに出演している商品を必ずしも購入するわけではなく、直接消費が生まれることは少ない。どこか人ごとで、無責任な好意ともいえるかもしれない。
しかし、彼らを推している人々のなかには、「推し」の活躍は自身の応援が影響している、という当事者意識を持っている者もいる。そういった人々は「自分が何かしなくては、推しは活躍できない」と考えており、推しが活躍すれば自分のことのように嬉しいし、推しの人気が低迷したり、スキャンダルに巻き込まれたりすれば自分のことのように悲しく思う。文字通り、自身の推しと「共闘」する意識を持っているのである。