施設を退所して一度はわたしの元へ戻ってきてくれたんですけど、今度は正式に自立したいと言い出しました。重度障がい者の娘がひとり暮らしはできるわけないと、また反対しましたが、最後にはわたしが折れるかたちで「やれるだけやって、どうしてもダメだったら帰ってきなさいよ」と送り出しました。

 子どもの頃から、なるべく娘を尊重して、やりたいことを止めないようにしていたつもりでしたが、娘の強さ、行動力はわたしの想像をはるかに超えていました。

 娘は80歳を過ぎた今でも、栃木県宇都宮市で立ち上げた、障がい者の自立を支援するNPO法人でがんばっています。

 よく「子育ては親育て」って言いますけど、わたしもそう実感しています。育てたようで、じつはわたしのほうが育てられたようなね。子どもたちの姿から学ぶことが多かったですし、子どもががんばっている姿を見ては、「わたしも負けないようにもっとがんばらなくては」と励まされたものです。

80歳を過ぎて
取材されるように

 初めて取材のお話をいただいたのは、地元、栃木県の下野新聞だったと思います。「戦後開店した床屋さんを、現役で経営し続けているスーパーおばあちゃん」なんて書いていただいて。当時、NHKの朝のドラマで『あぐり』というのがありましてね、作家の吉行淳之介さんと俳優の吉行和子さんのお母さんのお話でした。日本の美容師の草分け的存在の方なんですけど、わたしは「栃木版あぐり」なんて書かれて、うれしいような恥ずかしいような気持ちでした。

 それから、ご家族で町内に引っ越してこられた樺島弘文さんって方がいらっしゃったんですけど、『プレジデント』という雑誌の編集長をされていたそうなんです。「谷川サロン」にもときどき顔を出していただいて、わたしのことをインターネットに書いてくださったんですよね。それでまた取材のお話をいただくことが増えました。わたし、そんなにめずらしいでしょうか(笑)。

 NHKの歌の番組に呼んでいただいたとこともありました。こんな山奥までお迎えの車が来てくれて、東京は渋谷のNHKホールまで行きましたよ。