日本社会では「人が死んでいる」という事実がある場合、「疑惑」をかけられた人は何をどう釈明したところで「クロ」扱いされるというのは、兵庫県知事のパワハラ騒動を見ても明らかだろう。

 つまり、園監督は週刊誌に「疑惑」をかけられただけに過ぎないが、市民裁判的には「有罪」とジャッジされてしまっているのだ。昨今のコンプライアンス的にテレビ業界では「罪人」の関わった作品は基本的にお蔵入りだ。

 楽曲「地獄でなぜ悪い」は単なる主題歌である一方で、映画のタイトルになっているように園監督も無関係とは言い難い。そういう曲を公共の電波で流すということは園監督がやったとされることを容認することなので、同じような被害に苦しむ人たちを二重に苦しめるのでは――。

 そんな怒りのクレームが多数寄せられたことを受けて、NHKと星野さんは協議の末、「地獄でなぜ悪い」を歌うことをやめたのである。

 この対応をめぐって、冒頭のような激論が交わされている。「英断」「当たり前だ」と一定の評価をする人もいれば、ジャニー喜多川氏の未成年者への性加害報道の頃から社会全体で論争となってきた「作品に罪はない」論を主張する人もいる。

NHK紅白歌合戦が開いた
テレビ業界の「パンドラの箱」

 ただ、個人的にはそういう議論とはちょっと異なるポイントに関心がある。それは今回の対応をきっかけに来年2025年は、テレビ業界における「性加害・性暴力追及」というムーブメントが大いに盛り上がるのではないか、ということだ。

 なぜかというと、まず大きいのは、世の中から「性暴力根絶」を目指して日々活動をしてらっしゃる人々が今回の「大戦果」で一気に勢いづくからだ。

 若者離れで視聴率低迷とはいえ、紅白歌合戦は日本を代表するテレビ番組である。影響力の大きいテレビ番組から「性加害関連のコンテンツ」を追放することができたというのは、社会運動として大きな自信につながることはもちろん、実は非常に大きな意味がある。

 これを国民運動として盛り上げていく「武器」を手に入れたことと同じだからだ。