正義気取りの人々はあらん限りの罵(ののし)りの言葉をあからさまに書きつける。時には、そのタレントの過去までほじくりだして、人間性を否定するかのような言辞を並べる。そうしていながら、自分では正義のつもりでいる。いかに自分が卑劣なことをしているのかに思い至らない。
以前、学校でのいじめによる自殺者が出た時、ネットで犯人探しが始まり、加害者とその親たちが攻撃を受けた。親の勤め先とされた場所に非難と謝罪を求める電話が殺到したという。ある病院に勤務する人が加害者と同姓だったために、誤って攻撃を受け、病院は電話が通じず、しばらく患者の受け付けもできなくなった。
このような行為が愚かなのには大きく二つの理由がある。
一つは、このような歪んだ正義の味方は、まさしく不正義そのものだからだ。加害者を攻撃する人々は正義の味方ごっこをしているにすぎない。遊び半分に犯人探しをし、社会正義に便乗して加害者とされる人間を攻撃する。自分だけ安全なところにいて匿名で正義の味方面(づら)をする。しかも、一人ではそれほど過激にならないのに、大勢で攻撃するために、いよいよエスカレートして歯止めがなくなる。
これこそ、まさに多数の側によって少数者を攻撃するいじめにほかならない。正義のつもりなのに、精神の卑劣さのせいで不正義そのものになっているという点で、愚かとしか言いようがない。
第二の理由は、このタイプの人は、尻馬に乗っているだけで、自分でしっかりと判断していない点だ。自分で検証したのでもなく、一時的な情報を自分で集めたのでなく、また自分の価値観でしっかりと検証したのでもなく、ただ「正義」の流れに沿って浮かれているにすぎない。烏合(うごう)の衆であり、まさしく衆愚にほかならない。
忙しい自慢をしてしまう
自慢そのものは決して悪いことではない。
日本社会では、長い間、自慢はよくないこととされてきた。謙虚におとなしくしているのが美しいことであって、出しゃばらず、自己主張せず、自分の長所についても誰かがわかってくれるのをじっと待つべきであって、自分からアピールするなどもってのほかと思われてきた。