どの狐も黙って聞いていたわけではありません。中の1匹がこういいました。
「おいおい、そこの奴、もしそれがお前にとって都合の良いことでないのなら、我々に勧めはしなかったろうよ」
自分よりも優れた人がいれば、その人の価値を貶めて平均化をはかる一方で、この狐が尻尾を失ったように自分の価値が下がったとなると、自分だけがそうなったことを受け入れることができません。他の人も自分と同じでなければ気がすみません。そうなることが「都合の良い」ことなのです。
さらに、他の人を見てうらやましいと思って妬むだけで何もしないばかりか、他の人の邪魔をします。アドラーは、注目の中心でいるために、人の邪魔をするよりも、「人を助ける方がずっと勇気がいる」(『子どものライフスタイル』)といっています。邪魔ばかりして助けようとしない人と共生することはできません。
圧倒的な差がある相手も
嫉妬の対象になりうるか
人は誰に対しても妬むわけではありません、三木は次のようにいっています。
「嫉妬は自分より高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る。だがその差異が絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ」(『人生論ノート』)
「自分より高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者」に嫉妬するというのはその通りです。職責が自分より上であることは明らかですが、他の人が自分より幸福かどうかはわかりません。ここで三木が「自分よりも幸福な状態にある者」といっているのは、正確には自分よりも幸福な状態にあると思える者ということでしかありません。
地位であれ幸福であれ、差異が絶対的であれば、妬むことはありません。自分とその人との間に何かしら「共通なもの」があり、「自分も彼のようになり得ると考えられること」が必要であるというのは、自分が到底かなわないと思う人は嫉妬の対象にはならないということです。