なかから「はい、どうぞ」という先生の穏やかな声が聞こえた。出された椅子に座り、出されたコーヒーを飲みながらの対談であった。先生の留学先での経験や思い出話を聞きながら、期待と不安が自分の心のなかを駆け巡っている感じがしたことを覚えている。加藤先生は、今から旅立とうとしている不肖の教え子に自身の経験を通してアドバイスをしてくれたのである。

 その時期は留学の準備で忙しく走り回っていた。SNSという言葉が世間に出回っておらず、メールでさえもまだ普及していない時期であり、ビザを含む国内外のさまざまな許可の申請も手紙でのやり取りを通じてであったからである。イギリスまでの航空券は購入していたし、イギリスの大学からの留学許可も得ていたが不安な毎日だった。出発の日が近づくにつれて、不安だけが増殖し続けていく日々を過ごしていた。そういう時期のそういう精神状態のなかでの話だ。先生としては教え子の不安を少しでも取り除こうと考えていろんな話をしてくれたのだと思う。

 ただ留学に関する話のなかで記憶しているのは、先生から言われた最後の質問だけである。それは「最終的にあなたはヒエログリフが読めるようになりたいのか、それとも大学の先生になりたいのか」というものであった。究極の二者択一を迫られた気がした。それまでは考えたこともなかったが。私は即座に「大学の教員になりたいです」と答えた。

ヒエログリフを極める学びの旅の
最後に待っているのは野垂れ死に?

 それを聞いた先生は真剣な顔つきでうなずき、「ではイギリスでやることは決まっています。ヒエログリフにあまり時間をかけず、論文のネタを探して来なさい。あなたもわかっているようにヒエログリフの勉強は楽しいものです。しかし如何せん楽しすぎるのです。そこに時間を掛けてはいけません。大学で職を得たければ論文を書きなさい。博士号を取って研究書を書きなさい」と言ったのだ。