「強烈な被害者意識」は
戦前と令和との共通項

 日本の歴史を振り返ると、「強烈な被害者意識」が社会に蔓延したときというのは、国際社会や資本主義の原則などガン無視をして、とにもかくにも「日本」を中心に物事を考えて、経済や国民生活もすべてその「日本」がコントロールせよという政治ムーブメントが起こるものなのだ。

 その非常にわかりやすいモデルケースが1930年代の日本だ。

 7月10日に公開された記事でも、参政党の「日本人ファースト」は1930年代に唱えられた「日本第一主義」「日本中心主義」などのスローガンを掲げた日本主義運動とよく似ていると指摘した。ただ、実は似ているのはそれだけではない。

 実はこの時代の日本人も、参政党支持者のような「強烈な被害者意識」も抱えていた。資本主義の犠牲者として富める者たちに搾取され、白人列強諸国に日本人としての誇りを傷つけられ、頼りになるはずの政治家にまで裏切られた――。そんな風に感じる日本人が巷にあふれていたからだ。

 1929年、過酷な環境で働く労働者の悲哀を描いた小林多喜二の「蟹工船」が発表され、翌30年に「昭和恐慌」が始まった。株式・商品市場が暴落、中小企業の倒産が相次ぎ、大量の失業者を生み出した。

 そんな疲弊する国民にさらにダメージを与えたのが、「外国人の圧力だった。

 まず1930年のロンドン海軍軍縮会議でアメリカやイギリス、フランスなどに押し切られ、日本政府が海軍の軍備を制限することを決めたことに多くの日本人がブチキレた。当時、軍の統帥権を持つのは天皇だったので、これは天皇の権限を侵害した「統帥権干犯」ではないかというのだ。

 そこにさらに「外国人憎悪」を高めたのが1931年の満州事変だ。当時の日本人たちは満州事変、中国側が仕掛けてきた非道な排日運動に対し、我慢に我慢を重ねてきた日本側がついにブチキレた結果という認識だったが、西側諸国からすれば明らかに「力による現状変更」だった。当然、今のロシアのように国際社会からボロカスに叩かれる。