日本郵政・西川善文社長の更迭を求めていた鳩山邦夫総務相が辞任した。この連載では、既に政局の焦点が「鳩山兄弟」と指摘していた(第19回)。今回の辞任劇もその延長線上にある。ただ、鳩山(邦)氏はなぜ総選挙直前の時期に、麻生内閣支持率激減に直結する行動に出たのか。また、離党や新党結成はあるのか。今回は補足説明を行いたい。
まず、鳩山(邦)氏の政治家としての歩みを振り返る。93年に自民党を離党後、新進党を経て民主党結党に参加、副代表就任。しかし99年の東京都知事選出馬で民主党を離党し、落選後自民党に復党した。しかし鳩山(邦)氏は、05年の衆院選に母方の祖父の出身地である福岡6区から出馬して当選するまで選挙区が定まらなかった。また、復党後しばらくの間「無派閥」だった。離党を繰り返した鳩山(邦)氏に自民党内は冷淡だったと言える。鳩山(邦)氏は政治的に「根なし草」であった。
鳩山(邦)氏の転機は、セレブ同士で気の合う麻生太郎氏の06年、07年、08年の3回の総裁選で選対本部長を務めたことだった。そして、麻生氏の影響力が発揮された安倍内閣の改造人事で法相に、麻生内閣で総務相に就任することで政界の表舞台に復帰する。また「津島派」に入会し、2008年には派の代表代行に就任した。
「根なし草」だが
「実は総理を狙う男」の行動原理
鳩山(邦)氏は田中角栄元首相の秘書から政治のキャリアをスタートした。祖父・一郎氏も元首相であり、彼にとっては政治家として「総理の座」を目指すことは当然のことだろう。その彼が目をつけたのが麻生氏だった。
鳩山(邦)氏は「盟友」という言葉を連呼して麻生氏の信頼を得た。麻生氏を総理にすると総務相として入閣。麻生政権が長期化すれば、自らの自民党内での影響力は強くなる。その影響力で津島派を抑えれば麻生首相の後継の座を狙える。こんな戦略を描いて彼は行動した。
ところが、麻生政権は「泥船」だった。「ねじれ国会」下で野党への対応に苦しみ、麻生首相の失言連発で低支持率にあえいだ。また、津島派では石破茂氏が次期リーダーとして台頭し、鳩山(邦)氏が派を掌握するのは困難となった。ここで鳩山(邦)氏は麻生首相を見限った。「かんぽの宿売却問題」で激しい郵政批判を展開し、麻生首相の失言や小泉元首相の激怒を誘発し、麻生政権の支持率を更に低下させたのだ。
小沢一郎代表辞任後、「兄貴」鳩山(由)氏代表就任で民主党が党勢回復すると、鳩山(邦)氏は、一挙に「西川社長人事問題」のボルテージを上げた。麻生首相は「担当大臣としてちゃんと手順を踏んで調査するように」と指示したが、鳩山(邦)氏は「正義」一点張りで押し切った。