総予測2026

雇用における性別による差別を禁止する「男女雇用機会均等法」。1986年の施行から2026年は40年になる。特集『総予測2026』の本稿では、40年前の時代の“空気”はどんなものだったのか、当時の「週刊ダイヤモンド」誌面から振り返る。(Diamond WEEKLY編集部 深澤 献)

均等法施行から40年
第一線で活躍する女性3人の座談会

 1985年5月に「男女雇用機会均等法」が成立し、86年4月には多くの企業が“均等法第1世代”の新入社員を迎えた。それを受け、「週刊ダイヤモンド」85年12月28日号(86年新年号)に「女性を使えない企業はダメになる」と題した座談会が掲載された。

「週刊ダイヤモンド」1985年12月28日号「週刊ダイヤモンド」1985年12月28日号

 参加者は、女性国会議員の森山眞弓(外務政務次官)、作家の曽野綾子、東証1部(当時)上場企業で初の女性役員となった石原一子(高島屋常務取締役)の3人だ(敬称略、肩書はいずれも当時)。

 森山は女性で初めて東京大学法学部に入学し、50年に女性初の霞が関キャリア官僚となって、労働省婦人少年局長時代には男女雇用機会均等法の草案に関わった。その後、国会議員となり環境庁長官、内閣官房長官、文部大臣、法務大臣を歴任。官房長官時代には、大相撲の内閣総理大臣杯を土俵に上がって授与しようとして日本相撲協会に拒否され、女性差別であると問題提起したことでも知られる。

 曽野は宗教や戦争、社会問題、女性の生き方などをテーマにした小説やエッセーなどで多くの著作を残す。カトリック教徒で保守系の論客として政治評論も行うほか、日本財団会長、日本郵政取締役などを務めた。

 石原は東京商科大学(現一橋大学)を52年に卒業し、当時すでに男女同一賃金制度を採っていた高島屋に入社。79年に広報担当の取締役に選任され、81年には常務取締役に昇格。当記事が掲載された翌年の86年には、奥谷禮子(元ザ・アール会長)と共に女性初の経済同友会会員にもなった。

 当時の記事から一部を抜粋しよう。

次ページから早速、3人の座談会の様子をお届けする。そもそも男女雇用機会均等法は、1975年に国際連合が開催した国際婦人年世界会議で、76~85年を「国連婦人の10年」とすることが宣言され、女性の地位向上と女性差別の撤廃に各国が取り組むこととなり、その流れの中から成立したもの。75年からの10年間を振り返って、森山は「2000年になって、ふと周りを見回すと、ああ、こんなに変わったか、とびっくりするような社会になっているんじゃないかという気がします。この10年間がそうでしたから」と語っている。果たして、彼女たちが想像した未来は、実現しているだろうか。