写真 加藤昌人 |
進路指導の席で教師は大学進学の意思があることを聞いて目を丸くした。成績は常に底辺を這い、予備校ですら五度目の試験で入学を認められた。一浪の夏、秀才の友人宅でめくった医学部の紹介に目を奪われ、医者になると理系に転身した。息子は気がおかしくなったと母は本気であわてたが、二浪で国立大学の医学部に合格してみせた。
10代の頃、報道で目にするやせ細ったアフリカの子どもたちと、何不自由ない今の暮らしとのギャップは「時間と空間の偶然のズレによって生じている」と、痛みを覚えた。「彼らの役に立ちたいという思いと、医者であることがストレートにつながった」。浪人中も研修中も小児科医になっても、途上国に行くことだけを考えた。
それから通算10年。ミャンマーで医療活動を続けている。「初めは坊主が経を読むように、ただひたすら治療し続ければいいと思った。だが、ある日気づいた。僕の後ろにたくさんの行列ができていることに」。NGOを設立、年間二百数十人の医師や看護師が無償の奉仕を志願し訪ねてくる。
「病気から癒えた子どもをそっと懐に抱く母親の顔、それを目にして浄化されていく仲間たちの顔に、言葉を超えた喜びがある。だが、失う命の重さに肩を落とす。それでも僕はこの山を一生登ると決めている。時限を設けると高く登ろうとするが、終わりがないと覚悟すれば、高さを捨て、今を生きるようになる。すべての過去の意味は、今が決めるのだから」
(『週刊ダイヤモンド』編集部 遠藤典子)
吉岡秀人(Hideto Yoshioka)●医師・国際医療奉仕NGO代表 1965年生まれ。大分大学医学部卒業。大阪・神奈川の救急病院勤務後、95~97年ミャンマーで医療活動を行なう。岡山・神奈川の小児外科勤務後、2003年ミャンマーで医療活動を再開。04年NGO国際医療奉仕団ジャパンハート、06年海を越える看護団設立。