大川小事故検証委員会の第8回会合で、前回に続いて検証委員と遺族との意見交換が行われた
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学校管理下にあった児童・教職員84人が、東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校。第8回大川小事故検証委員会は、12月22日の午前10時半から7時間余りにわたって、石巻市の石巻合同庁舎で開かれた。

発足から10ヵ月以上が過ぎ、市教委の事後対応に、どこまで迫れるのかが注目された今回の委員会。震災後の生存教諭や当時の校長の行動、市教委の対応に対し、委員の間から問題提起の必要性が上がるなどの進展が見られた。また、「教職員集団としての意思決定が、なぜ遅れたのか?」という核心部分についての議論が、最終報告をまとめる予定だった12月に入ってようやく始まったような状況だ。

一方、遺族との意見交換の場では、非公開とされる資料などについても「遺族の知る権利」を訴える遺族の声に、検証委員会側が「情報開示の方法を検討させてほしい」と約束するなどの新たな展開も見られた。

唯一の生存教諭と校長の言動に
ようやくメスが入る

 まず注目されたのは、「事後対応に関する情報」の記述だ。

 津波来襲時、児童とともに山を越え、林道経由で入釜谷側の事業所に避難し、一晩を明かした生存教諭(A教諭)は翌日、さらに入釜谷生活センターに設けられた避難所に移動した際、飯野川方面に徒歩で向かおうとする人に、学校の状況を伝えてほしいとお願いしたという。

 その後、船と救急車で児童2人に付き添い、桃生地区の避難所に移った際や、帰宅するために消防関係の車に乗せてもらったときにも、大川小学校についての連絡を依頼したと証言している。

 しかし、調査した弁護士の佐藤健宗委員は、こう指摘する。

「A教諭が当日の夕方、山を越えて事業所に来たとき、なぜ大川小の教諭であることを明確に伝えて助けを求めなかったのか。学校の現状を伝えていれば、もう少し早く(事業所の人たちによる)救援が始まり、助かる命もあったかもしれない」

 また、校長が大川小学校に初めて入ったのは、震災6日後の3月17日だった。

災害時の校長の行動が学校の意思決定にどう影響したのか質問した美谷島邦子委員
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「校長はなぜ生存児童の確認に行かなかったのか?」

「校長は災害時、速やかに学校に復帰するのが当然の職務。そのことが学校の意思決定に大きな役目を果たしていくことをどのように思っているのか?」

 東北福祉大学総合福祉学部教授の数見隆生 委員や、日航機墜落事故遺族の美谷島邦子委員から、そんな質問が相次いだ。すると、調査担当の佐藤健宗委員は、

「当時、校長は教育委員会と連絡がつかなかったとしても、自分が責任者である小学校の現状を確認に行くべきだったのではないか。少なくとも、震災の翌日朝には、大川小学校に行ける可能性は高かった。校長の態度に、分析評価の必要性を感じる」

 として、委員会に問題提起する考えを明らかにした。