それにも増して、憲法を守るべき立場にある政府が、自ら60年にもわたって言い続け、国民にも共有されている憲法の解釈を、一内閣の政治的な判断によって変更することが認められるとすれば、いったい憲法は何のためにあるのかということになります。

 安全保障環境が変わったといわれます。そんな中で、憲法に固執していて国が滅びても良いのかとかいった議論が呈されたりもします。これは裏を返せば、立憲主義を否定する言説といえます。法治国家では、法律の文言は無視して良い、何が書いてあろうと、時代に合わせて政府が適当に解釈し、運用すれば良いなどということはあり得ないのです。わが国では毎年100本前後もの法律の改正が行われていますが、その多くは時代、環境の変化に法律を適合させるためのものです。

 いうまでもなく憲法には、その改正のための手続きが定められています。それなのに、どうして政治は、改正のための努力を惜しむのでしょうか。わが国が平和主義を止めるかどうかはとても大きな問題です。こんな大事なことについてその是非を国民に問うのではなく、いったい何のための国民投票法、憲法改正手続きなのでしょうか。集団的自衛権の行使が不可欠であれば、国民にその必要性を十分に説明し、理解を得た上で、憲法を改正することこそが政治の王道です。

限定容認論について

 最後に、最近唱えられている集団的自衛権の限定容認論について付言しておきます。これは、集団的自衛権の行使が、わが国の存立を全うするために、必要最小限度の範囲内でのみ認められるとする意見です。この説は、政府が、自衛隊はわが国を守るための必要最小限度の実力組織であるとし、また、わが国が攻撃されたときにも、自衛隊の実力行使は外国による侵害を排除するために必要最小限度の範囲内でなければならないとしていることを踏まえ、集団的自衛権の行使をあたかもその延長線上にあるかのように見せようとするものと思えます。

 しかし、個別的自衛権と集団的自衛権との決定的な違いは、わが国が武力攻撃を受けているかどうかにあります。集団的自衛権の行使は、わが国が攻められていないのに、日本から離れた場所で行われている戦争に参加することですから、行使をした途端に、それまで局外者であったはずのわが国が、交戦当事国になってしまうのです。その結果、敵国が日本の領土を攻撃することも許されるようになります。