「人生の嘘」とは何か
神保 アドラー心理学における「幸せに生きるためのヒント」の2つめは「人生の嘘」というものですが、これはどのようなことでしょう。
岸見 さまざまな口実を設けて人生の課題から逃れようとすることです。先ほどの話にもあったように、自然に任せておけば人は誰でも自分を良く見せたくなるものです。それゆえ、できないことがあると、できない理由を山ほど言います。アドラーはそれを「人生の嘘」という非常に厳しい言葉で断罪しているわけです。
神保 これはどう克服すればよいのでしょう。
岸見 理由など要らないからできないことを認め、そのうえで挑戦するしかないでしょう。
神保 できない理由を挙げることで、挑戦することから逃げられるわけですね。
岸見 結局、神経症的なライフスタイルというのは、オール・オア・ナッシングなのです。できなければしない。100%できないとしない。しかし、それはやらないための口実にすぎません。50や60でもやらないよりやったほうがましだとの発想に立たない人が多いのです。
神保 なるほど。100点にならない理由を見つければ、やらなくて済むわけだ。
宮台 この問題も本当にいろいろなことに関係します。たとえば、日本の社会運動を見ていて感じるんですが、やはり「ゼロか100か」になりがち。運動をやらない人だけでなく、やる人にも見られます。やらない人は、100から遠いことを以て「どうせ無駄でしょ」と決め込みますが、やる人も100を求める完璧主義なので、現実を変えられません。
下北沢再開発問題などもそう。「100を貫徹するために頑張るぞ」という自己鼓舞は分かりますが、100じゃないと満足しないのはどうか。原子力ムラだけでなく左翼ムラを含めた全てのムラに見られる閉鎖的で陣営帰属的な自己満足です。妥協策を提案すると「貴様、本当は敵側じゃないのか?」みたいな批判を浴び、それを恐れて100を言い続けます。
既に古くからの開発計画がある場合「ゼロか100か」はまず通らない。であれば、三軒茶屋の再開発みたいに開発エリアと保全エリアを分けることを飲ませる条件闘争をすればいい。しかし、それを言うと、知り合いの運動リーダーの一人は「宮台、お前の言うことは分かるが、それじゃ元気が出ないんだよ」と言うわけです。
神保 それは矛盾だよね。
宮台 そう。「元気が出ない気持ちも分かるが、あなたを元気づけるためじゃなく、実を取るための運動だ。獲得結果の最大化につながるなら、あらゆる妥協をするつもりでやらなきゃ」と僕は言います。あと、過激なことを言い募るほどポジションが取れるという「内集団の論理」もあります。これも「あなたのポジションなどどうでもいい」で終了。
神保 自分のためにやっているんだね。
宮台 そう(笑)。
神保 いろいろ理由をつけて「だからやらない」という人と、玉砕主義的なやり方をする人という両極になっていますよね。前者は、あえてやらない理由を見つけ人生の嘘をついていると。では後者はどう考えればいいでしょう。100点じゃなければ意味がない、妥協して60点の成果をあげるくらいなら玉砕したほうがいいといった人は。
岸見 アドラーは、そういう事例についても触れています。負けることがわかっているのにあえて攻撃をやめないで、「玉砕」させてしまうような指揮官の例を、共同体感覚のない人の例として挙げているのです。
神保 何度も話に出てくる共同体感覚ですね。
岸見 要するに自分のことしか考えていないのです。自分の名誉ばかり考えている。そのために兵士が亡くなろうが関係ない。それって愛国的でさえないですよね。このような考えをアドラーは「セルフ・インタレスト」(self interest)と呼びました。そして他者に関心を持つことを「ソーシャル・インタレスト」(social interest)と呼ぶわけです。この「ソーシャル・インタレスト」が、実は共同体感覚の英語訳なのです。
神保 なるほど。
宮台 「どうせムダ」も「玉砕覚悟で」も結局は「自分可愛い」だけ。「ゼロか100か」は「自分可愛い」人のワザ。そうした自己中心的な幼児性を示す「Me」に対し、立派な共同体成員なら誰もが示すはずの反応を示せる「I」を獲得することが、大人になること。それが共同体感覚のミード的言い換えです。「ゼロか100か」は恥ずべき幼児性です。