そんなことを考えながらニュース映像を見る僕に、横でテレビを見ていた娘が、「泣いているかもね」とふいに言った。
 「誰が?」
 「コーランを書いた人。誰だっけ。ムハンマド」
 「正確には彼が書いたわけじゃないけどね。ムハンマドは読み書きができなかった。だから彼が受けたとする神の啓示を、その後に信徒たちが書き留めた」
 「コーランは戦いを勧めているの?」
 「微妙だけど勧めてはいない。異教徒との戦いの記述は何カ所かあるけれど、その後にはほぼ必ず、相手を寛容に扱えと書いてある。そもそもスンニ派にとってシーア派は異教徒じゃない。コーランには平和についての記述のほうが圧倒的に多い。例えばジハードを『聖戦』と訳す人は多いけれど、本来の意味は『神のもとで努力する』だよ。人を殺戮する意味じゃない」

 少し考えてから、「じゃあやっぱり解釈の問題ね」と娘は言った。なるほどと僕はうなずく。問題は解釈。確かにそうだ。それがすべての根源だ。

 これはイスラムだけの問題じゃない。たとえば十字軍や異端審問や魔女狩りの時代、きっとイエスは天空で、おまえたちは何をやっているんだと地団太踏んでいたはずだ。聖書を手にしたブッシュが悪を討つと宣言しながらイラクへの武力侵攻を決めたとき、ちゃんと聖書を読めよと泣いていたかもしれない。悲しいけれど言葉は万能じゃない。ニーチェは「事実などは存在しない。ただ解釈だけが存在する」と言った。赤という文字を目にしても、それによって思い浮かべるイメージは人によって違う。世界には人の数だけ赤がある。解釈によって意味はまったく変わる。

 でもだからこそ考えねばならない。この言葉はどんな意味で記されたのか。どんな思いを込められたのか。

なぜこの世界には軍隊が存在するのか

 人から殴られそうになったら身を守る。腕などで顔や頭を防御する。これは当たり前のこと。誰もそこで「自衛権」などとは考えない。使う言葉は「自衛」で事足りる。「権」がつくからややこしい。しかもそこに「集団的」や「個別的」がつくから、さらにわからなくなる。

 つまり解釈の余地が大きくなる。その結果として過ちを起こす。