帝国劇場開場の年、1911(明治44)年と翌12年の演目のうち、三浦環(1884-1946)と松井須磨子(1886-1919)が出演した月のプログラムを『帝劇の五十年』(東宝、1966)から書き出してみる。須磨子については連載第34回で詳しく書いたが、近代日本を象徴する2人の女優(歌手)の舞台を対比しながら、約100年前に世界へ飛び出す直前の三浦環の足跡をたどってみよう。

帝国劇場初年度、川上貞奴、三浦環、松井須磨子の登場

1911(明治44)年

3月1日 帝国劇場開場式

帝国劇場プログラム
5月20日~26日
「ハムレット」シェイクスピア作、坪井逍遥訳

帝国劇場開場2年間のプログラムで俄然注目された<br />三浦環の出演は5回、独唱から歌劇まで(1911-12年)松井須磨子(国会図書館所蔵)

 文芸協会=東儀季治、土肥清元、加藤亮、松井須磨子ほか(連載第34回)。坪内逍遥率いる文芸協会の第1回公演。須磨子はオフィーリア役。初めて芸名「松井須磨子」を名乗った。

7月1日~25日
「水滸伝雪挑」(河竹黙阿弥作)
「心の声」(益田太郎冠者作)
「両師実は間者」(江見水蔭作)
「独唱」=三浦環歌唱
「三太郎」(益田太郎冠者作)
「ケーキウォーク」
「安宅の松」(富士田吉治作曲)
「夕涼鴨河風」(右田寅彦作)

 約1ヵ月、毎日8演目を公演。森律子、村田嘉久子ら専属「帝劇女優」に柴田環(三浦環)加入。この演目では環の独唱の評価が高く、正式に帝劇と契約することになる。帝劇女優陣からは高額の契約でとつぜん現れた環に非難の声が集まったそうだ。

 帝劇女優とはどのような存在だったのだろうか。

 1893(明治26)年から1908(明治41)年、4回に渡って欧米を巡演し、演劇の研究に打ち込んだ川上音二郎(1864-1911)と貞奴(1871-1946)夫妻は、帰国すると08年9月に帝国女優養成所を開く。

 貞奴は1903年2月に明治座でシェイクスピア作「オセロ」のデズデモーナ役を演じた日本初の舞台女優となっていた。欧米では川上一座の公演で演じていたが、日本では初めてだった(新国立劇場情報センター『<要点>日本演劇史』2012による)。

 当時、女優はほとんど風俗商売のように思われ、社会的な地位どころか軽蔑の対象でもあった。というのは、以下のような歴史的な経緯があったからだ。

 歌舞伎の誕生は出雲のお国(1572-不詳)による。つまり、そもそも女性が演じていた。その後、全国各地に「遊女歌舞伎」まで現れ、売春の舞台ともなる。徳川幕府は風紀上の取締りを始め、「ついに1629(寛永6)年に一切の女芸人が公衆の前で踊ることを禁じた。以後、女性が公衆の前で踊り、演じることは表向き1891(明治24)年の新派の『男女合同改良演劇』まで262年間なかった」(新国立劇場情報センター、前掲書)。歌舞伎の女形はこうして生まれたのである。

 女優の養成は、日本人に染み付いた強い悪印象をなんとか払拭しようという川上音二郎の悲願でもあり、開場を準備していた渋沢栄一ら帝劇の願望でもあった。