三浦政太郎・環夫妻ドイツへ旅立つ

帝国劇場プログラム
6月1日~23日

「新夫婦」(ビヨルソン作、小山内薫訳)
「万年草」(近松門左衛門作、岡本綺堂脚色)
「歌劇釈迦」(松井松葉作)
「出来ない相談」(益田太郎冠者作)
「風俗名所合」(右田寅彦作)
「偽紫田舎源氏」(右田寅彦作)
「嫗山姥(こもちやまんば)」(近松門左衛門作)

 帝劇女優陣に「歌劇釈迦」で柴田環(三浦環)加入。この作品が環の帝劇出演最後となる。1912年中に松井須磨子の帝劇出演はない。松井須磨子と島村抱月の恋愛問題で文芸協会の内部が紛糾していた。2人はけっきょく1913年5月に文芸協会を退会し、芸術座を興すことになる。

 環は「釈迦」を最後に帝劇を離れる。明治天皇崩御、大正改元(7月30日)で9月20日まで歌舞音曲が停止された、これをきっかけに、と書いている。

「次の六月興行にも創作歌劇を出しました。今度は松居松葉作詞、ヴェルクマイスター作曲の『釈迦』、主役は私と清水金太郎、そして私共が養成した歌劇部員が初出演しました。これは舞台が天竺だったせいもあり、『熊野』ほど酷評は浴びなかったが、さりとて大成功だったとは、義理にも云えませんでした。/こうして私の帝劇時代はどっちかと云うと成功しなかった。クサリ切っているところに明治天皇さまの御不例から諒闇で、歌舞音曲は停止」(三浦環、吉本明光、前掲書)。

 帝劇を辞めて三浦政太郎が赴任しているシンガポールへ行くことになる。これがいつのことだったのか判然としない。帰国は1913年5月なので、おそらく1912年中だったのだろう。連載第58回で書いたストーカー千葉秀甫との一件で記憶が混乱している。

 シンガポールの三井ゴム園病院長の任期を終え、三浦政太郎と環が帰国し、正式に結婚したのは1913年9月である。結婚後は静岡に滞在し、翌1914年、いよいよ留学のためドイツへ旅立つ。

「しばらく三浦の故郷の遠州にひっこんでいましたところ、三浦の先生で帝大の薬物学の教授長井長義博士が、三浦夫妻を田舎にくすぶらしておくのは勿体ない、一日も早く上京するようにとおっしゃって下さったので、東京へ帰って参りました。そして大正三(1914)年の五月二十日横浜を出帆して三浦とドイツへ出掛けたのでした」(三浦環、吉本明光、前掲書)。

 須磨子はその後、1913年12月2日~26日まで帝劇で「サロメ」(オスカー・ワイルド作、中村吉蔵訳)に出演した。抱月と旗揚げした芸術座の公演だが、演出は帝劇歌劇部のジョヴァンニ・ローシー(1867-不詳)が担当した。

 1914年3月26日~31日には帝劇で「復活」(レフ・トルストイ作、島村抱月訳)を上演、劇中歌の「カチューシャの唄」で須磨子は大スターになる(連載第34回)。三浦環がドイツへ向かったのはその2ヵ月後のことだった。

 川上貞奴は帝劇で1913年6月1日~25日に女優劇「トスカ」(松居松葉訳)、14年12月1日~25日に「ドンナ」(中内蝶二)に出演し、1917年10月、明治座「アイーダ」(松居松葉訳)の公演を最後に舞台女優から引退した。