歪んだ議論が震災への無関心を加速させる

 吉田調書ほか政府事故調の調書公開が始まったなかで、いま議論の中心にあるべきなのは「とにかく、市民のためにすべてを情報公開すべき」という主張でも、「新たな吊し上げ・糾弾の対象を探すべき」という下劣な目標を立てることでもない。しつこく繰り返してしまうが、いかにそこから教訓を得るかということだ。

 そして、歪曲・捏造と見なされることをしてしまった事実に対して、私たちがなすべきなのは、それでも朝日新聞の吉田調書報道の全てが間違っているわけではないと「擁護」したり、無理に公開に至らしめた「意義」を見い出そうとしたりすることではない。歪曲・捏造と見なされることを二度としないために考え、溜まった膿を出しきり、具体的な行動に落とし込むことに他ならない。その認識を、もちろん問題を起こした当事者自身が持つべきであるが、それ以上に、私たちオーディエンスも真摯に持つべきだ。さもなくば、同様のメディア・イベントは再発する。そのうえで、すでに進んでいる無関心化にいかに抗うか、ということが重要になる。

 吉田調書問題で改めて反省すべき大きなポイントの一つは、この報道によってもたらされた「原発作業員は原発事故に怖気づいて逃げた」という事実と違うイメージのもとで、原発作業員への大いなる侮辱・冒涜がなされたということだ。いまも、現場でリスクを抱え、もがきがながら働いている作業員がいる。彼らを尊重することなしに、原発事故の問題は解決しない。

 しかし、彼らは東電や東電関連会社の社員である場合も多く、何を言われても自分たちの考えを言いづらい立場にもある。にもかかわらず、遠くから、上段から、一面的な見方を押し付ける圧力は常にかかり続ける。もし8月以降の検証作業がなかったならば、彼らへの蔑みの眼差しは是正されることはなかっただろう。

 また、彼らの多くは地元出身の被災者でもあることを忘れてはならない。被災者でありながら当時の収束作業に励んた人々のなかにはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱える人も多くいる。今回の件は、彼らへのセカンド・レイプにも等しい暴行だったと言っても過言ではない。仮に、背景に「権力監視」への義務感や「正義」があったとしても、である。

 福島第一原発での地下水等の処理の問題、中間貯蔵施設の搬入の開始など、目の前には大きな課題もある。本来は、このような解決し難い問題にこそ、知恵と関心を集めるべきだ。恐怖を煽ったり、悪者探しをしたりすることで関心を引こうとする志向は、被災地の問題を置き去りにし、その議論を消費し尽くしたあとには何も残らない。これまでも、そうしたセンセーショナルな議論に、被災地は散々翻弄されてきた。

 原発作業員への眼差しの問題から離れても、吉田調書スクープのような報道は、一部の人には今後も評価され続けるだろう。「ほら、やっぱり原発は人の手に負えないではないか。東電は無責任だ。原発も東電もダメなんだ。危ない放射能をまき散らして」と、これまで何度も繰り返されてきたパターンの議論を、いまでも強く欲し、望む人はいる。

 とにかく東電・政府を叩けば賞賛され、とにかく原発・放射線が危険だと煽れば喝采される。そこにいくら石を投げ続けても、自分に石を投げ返されることはない。なされるべき冷静な批判も、科学的検証も熱狂にかき消される。それによって、なおさら賞賛・喝采を求める「調査報道」が続けられる。極端な言い方かもしれないが、3年半のうち知らぬ間にそんな経路依存性ができてきていないか。

 たしかに、東電・政府に批判されるべきことはあり、原発・放射線の状況も注視しなければならない。その側面があることを認めたうえで、事実の検証は「思い入れ」やイデオロギーとは分けてなされるべきだ。さもなくば、3.11以前、見るべき事実を見て見ぬふりし、恣意的な解釈を積み重ねることでの歪みが「安全神話」を産んだのと同様に、これからも、社会の暗部を不可視化・固定化して「漂白」する力はかかり続ける。

 いまもなお、今回の報道に「朝日 vs. 産経(&読売・毎日等)」という二項対立を読み込み、「産経がまた朝日・民主党叩きしている」「官邸が慰安婦問題・吉田証言以降の朝日吊し上げの空気に乗じている」と解釈するのみで済ませようとする議論が一定数ある。

 たしかに、吉田調書問題は、かねてよりあった「ありがちな構図」のうえで行われている、メディア・イベントの側面を持っていることも確かだ。しかし、そのような安直な枠組みのなかで認識し、済ませるべきことではない。なぜ、復興の現場の最先端で苦心する人を貶めるような報道が、正義然となされてしまったのか。思い入れとバイアスのなかで、歪んだ議論がなされていったのか。これらは大いに検証がなされていく必要がある。

 多くの人は、今回のような議論の混迷のなかで「また原発についてわけわからないことが起きている」と、原発議論自体への不信感を強めるとともに、無関心にもなるだろう。もし吉田調書スクープの背景に、「このようなセンセーショナルな報道をすれば、原発問題や被災地への関心が再び高まるはずだ」という「善意」があったのだとすれば、それはまったくの逆効果だ。

 3.11後の原発や被災地をめぐる報道には、恐怖心を煽ることや政局に絡めることに偏った、センセーショナルな議論が蔓延してきた。しかし、これまでの多くの議論がそうであったように、吉田調書問題の議論が消費し尽くされた先に何も残されないとすれば、より持続性のある議論の仕方を考えなければならない。

 スキャンダルが出てきたときだけ騒いだり、「毎年3月になったら特集して終わり」ではなく、これをきっかけにいかに持続的な議論をする場をどうつくるか考えるべきなのだ。


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