三浦夫妻は戦争の混乱を避けてベルリンからロンドンへ移ることになった。ロンドンに着いたのは8月16日である。指揮者のヘンリー・ウッド(1869-1944)の私的なオーディションの場に出て歌い、評価され、英国王・皇后臨席の演奏会(ロイヤル・アルバート・ホール)に出演する機会を得る。これが10月24日のことだった。

 その後、ロシア人の興行師(プロデューサー)ウラジミール・ロージンから声をかけられ、1915年5月31日から8回、ロンドンで「蝶々夫人」のタイトルロールを歌うことになった。決まったのは本番のわずか1か月前だったのだそうだ。全3幕、休憩をはさんで3時間を超える大規模なオペラである。1か月でイタリア語の曲を暗譜し、演技も覚えたのだからすごい。日本人は舞台にも裏方にも一人もいなかったのだから。

 この公演は大成功し、英国の聴衆の心をつかんだ。「15歳の日本少女」という役柄どおり、日本の「少女」がソプラノで見事に歌ったのだ。実際は32歳だったが、小柄な環は少女に見えた。東洋人がイタリア語でプッチーニを歌うなど、ロンドンの聴衆をさぞかし驚かせたことだろう。1900年に川上音奴がロンドンでも演じ、歌っているが、川上音次郎のオリジナル作品で、和風の演目だった。

 1915年夏に米国のボストン・オペラ・カンパニーに招聘され、渡米。1917年春にはシカゴ・オペラ・カンパニーと契約し、1年間で100回、出演料1回1000ドルで契約した。おそらく「1年間」とは、1917年秋から1918年秋にかけてだっただろう。年末には第1次大戦戦勝の凱旋式に招かれ、ウィルソン大統領にエスコートされて歌った。日本は日英同盟によって参戦していた。凱旋式で歌う写真が残っている。メトロポリタン歌劇場のガラコンサートにも出演したそうだ。もう大スターである。

ウィルソン大統領にエスコートとされた凱旋式で歌う三浦環(1918年、『歌劇お蝶夫人』より)

 環が契約したボストン・オペラ・カンパニーは1915年11月に財政破綻している。シカゴ・オペラ・カンパニーという名称の団体も現在は存在しない。シカゴにはオペラ興業会社が歴史的にいくつかあるが、環が在籍していたカンパニーを継承した団体はないようだ。

 自伝によると、「アメリカ中の都会二百何十ヵ所で『お蝶夫人』をうたうことになりました」とあるので、100回どころではない。ほかの団体にも出演したのだと思われる。米国内を巡演しているということは、シカゴの歌劇場というわけではなく、移動して公演した団体だったのだろう。

「蝶々夫人」のオーケストラはトロンボーン3本とチンバッソ(通常チューバで代替)を含む3管編成で、多くの打楽器も要する。おまけに合唱団も必要だ。この巨大オーケストラと合唱団と舞台装置を運搬しながら広大な北米大陸を移動するのは困難だ。コストも合わないだろう。すると、全幕をスコアどおりではなく、オーケストラを小編成にアレンジし、全幕ではなく抜粋したこともあったと思われる。

 たとえ抜粋だったとしても、主演の蝶々夫人の歌唱は削除せず、主要なアリアや重唱は当然のことながら演じただろうから、出ずっぱりで歌い続けた。

 政太郎はもちろんいっしょに渡米し、エール大学に在籍した。1年ほどは環に随行していたが、のちに環と離れてエール大学へ通ったという。無給とはいえ、欧米のどの研究機関も政太郎を受け入れているのは、彼が優秀な医学・生理学者だったからである。