1920年にプッチーニ本人も来場

三浦環とプッチーニ(1920年4月、『歌劇お蝶夫人』より)

 米国各地で公演を続けていた1920年初頭、イタリアのプロデューサー、ルサルディと契約し、イタリアへ渡る。政太郎はエール大学を辞めて同行した。ルサルディはプッチーニによる「蝶々夫人」のオペラ化を実現したプロデューサーである。契約は1年間100回だったそうだ。

 ローマに着いたのは3月、1回目の公演が始まる。このとき、ジャコモ・プッチーニ本人が来場し、環の「蝶々夫人」を見た。翌日、プッチーニから電報が送られてくる。「昨夜、テアトロ・コンスタンチでオッチモ(最上の)バタフライを拝見することができて、大変嬉しかった。就いては是非近いうちに拙宅へお招きしたいから来てください。バタフライを作曲した家でお話をしましょう」という内容だった。翌4月に実現し、環はプッチーニ邸に1泊して歓待を受けた。このときの写真も残っている。なお、「テアトロ・コンスタンチ」とは、現在のローマ歌劇場のことだ。

 この契約も各国を巡演するものだったようで、イタリアだけでなく、欧州各地、エジプトや南米まで遠征している。1920年中に政太郎は先に帰国することになる。研究が佳境に入ったためだった。

 100年前にこれだけ演奏旅行し、オペラの主役を歌っていた日本人歌手がいたとは、驚くほかはない。

 1922年4月、9年ぶりに一時帰国、東京ステーションホテルで歓迎会が開かれた。政太郎とも2年ぶりに会った。渋沢栄一に頼まれ、上野公園の博覧会会場で独唱会に出演。「ある晴れた日に」、「茄子とかぼちゃ」(端唄)、「きんにゃもんにゃ」(俗謡)などを歌う。

 この年の秋、米国へもどる。夫の政太郎は日本に留まってほしいと願ったが、渋沢ら周囲の勧めもあり、単身渡米した。環は政太郎にこう言ったと自伝に書いている。

「あなたはビタミンの研究を早く完成して博士になって下さい。(略)あなたの研究は人間の健康をよくすることだから、世界の人類が幸福になるのです。私はあなたが博士になったら、日本に帰って参ります」(三浦環)

 政太郎は理化学研究所の辻村みちよ(1888-1969)とビタミンCを共同研究し、1924年に共著の論文「緑茶中のヴイタミンCに就て」(「日本農芸化学会誌」第1巻第1号、1924)を発表している(国会図書館に保存されていた)。おそらくこの研究で博士号を取得したのだろう。緑茶にビタミンCが多く含まれていることはよく知られているが、発見者は三浦政太郎だったのである。この研究によって緑茶の輸出が増え、産地の故郷、静岡県から感謝されることになった。

 共同研究者の辻村みちよ(1888-1969)は日本で最初の女性農学博士となり、のちに理研から母校のお茶の水女子大学教授に就任、定年退官後は実践女子大学教授をつとめている。