「ソーシャル・ビッチ」は自分と同じ
仕事で寂しさを埋めることはできない

開沼 その点で言うと、現代社会において、男女問わず、承認の問題は重要ですね。現代のテクノロジーは、たとえばFacebookの「いいね!」のように、承認欲求を手軽に満たす手段を発達させている。かつては地縁・血縁のような地域のなかで、あるいは学校や仕事のなかで、承認が与えられるように社会ができていた。「こうすれば一人前だ」とか「こう昇格したら素晴らしい」とか目標が設定され、それぞれの人に立場と役割が与えられていました。

 しかし、そのような前提が薄らぐなかで、何が承認を与えてくれるのか不透明になっています。そのなかでは行き場のない、承認欲求の消費市場が発達する。たとえば、ネット上では2chで排外主義的言辞を吐き合いながら戯れる人も、Twitterでデマ・陰謀論をつぶやき合いながらリツイートし合う人も、いかにその承認欲求の消費市場で、自分の認識や言葉を消費可能な商品として流通させられるのか競い合う。

 ただ、その競合は、土地や身体との結びつきが曖昧である故に、行き着く先が見えにくい。つまり、いちAV女優の身体が持つ価値とは正反対に、「お前じゃなくても、代わりはいくらでもいる」という構造に気づきながらの競い合いになり、そうであるが故に、より承認欲求の満たされなさを感じることとなり承認依存症状態に人を導きます。

 なんとなく満たされない不安・不満をみなが持つ状態。その持っていきようのない気持ちを消費するシステムは確実に発達し、社会を構成する大きな要素になりつつありますよね。

鈴木 ええ、「ソーシャル・ビッチ」になっている子もいますよ。

開沼 博(かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

開沼 初めて聞きました。なんですかそれ。すでに定着している言葉ですか。

鈴木 博報堂の友人が言っていた言葉です。ほかには「『いいね!』コレクター」と言われることもありますね。たとえばですが、お洒落で今風な女の子がたくさんいるような、サイバーエージェントのような会社に勤めて、毎日「ゼックス」のような洒落た店で女子会して、料理や自分のファッションの写真も撮ってFacebookに上げることもその一つかもしれません。私の友人には少ないけど、スピリチュアルの方向に行く人もいるでしょうね。友人のなかにはメンヘラ風な文科系女子になったり、ホストクラブにはまったりという人もいます。

 そのどれもが、自分の失われゆく価値と自分自身の現実の価値とに、どう折り合いをつけていくのかという面では共通すると思います。私たちの世代に限ったことではないかもしれませんが、それでも女子高生という記号が異様な価値を見せていた時代を思うと、わかりやすく失われゆくものはあると思います。90年代、2000年前後までに女子高生だった人たちはとくに。ワイドショーの話題の一つが女子高生という時代でしたからね。山内マリコさんの短編のタイトルで「私たちがすごかった栄光の話」というのがありますが、まさにそんな感じですよね。「すごかった」んですよ、私たちは。

開沼 仕事では、そうした葛藤を解消できませんか。

鈴木 私は難しいと思います。いまだに女性としての成功と仕事としての成功の相性があんまり良くないこともありますから。それこそ、あの問題が起こるまでの小保方さんのようなやり方で多少は満たされるかもしれませんが、会社で仕事をするとなると、よほど自分をうまく洗脳してあげないと、ふわふわして満たされない日々の退屈を仕事のなかで埋めるのは難しいでしょう。ほとんどの人にそういう技術はない気がします。私も含めて。