とはいえ、「今回の静岡エイプリルフール訴訟で、特別に画期的な判決が」というわけでもない。この数年、「働けるのに働いていない」を理由とする生活保護打ち切りと、打ち切りを不当とする訴訟が全国各地で続いている。「生活保護利用者の『働ける』を証明する義務は、福祉事務所にある」という考え方は、それらの訴訟の中で現れた流れである。

「就労に関して困難を抱えている当事者が『就労の場はなかった』と証明しなくてはならなかったのですが、一連の判決で、就労の場が『実際にあった』ということを行政が証明しなくてはならなくなりました」(笹沼氏)

 就労の場の有無は、本人の努力で決まるという意見もあるかもしれない。

「でも、このところの判決では、本人に対し、特定の雇用主が『雇用したい』という意思表示をしていて、本人が『働きます』と言っているという事情がない限り、『就労の場がある』とは言えないことになります。そうなると、法的には、稼働能力があることを理由にして生活保護を打ち切ることはできません」(笹沼氏)

 生活保護でなく、この4月から本格的に事業が開始された生活困窮者自立支援法では、どうだろうか?

「生活困窮者自立支援法でも、同じです。仕事がなく、収入がないならば、保護しなくてはなりません。保護されない場合、裁判で争えば勝てます。失業しているとは、働く場がなく働く権利を行使できないということです。国には、仕事を確保するか給付を行う義務があります」(笹沼氏)

 それはガマンが足りないからだ、どんなに劣悪な仕事でも選ばなければ就けるはずだ。ガマンできないというなら、強制就労でもさせれば……長時間労働と強いストレスのもと、高いとはいえない賃金で働き続ける人々の怨念は、かえって強くなるかもしれない。

「でも、義務と権利は違います。仕事は、憲法25条でいう『健康で文化的』なものである必要があります。その考え方は、労働基準法にも盛り込まれています。『健康で文化的』ではない職業は、違反しています。国際的な考え方もそうです」(笹沼氏)

 劣悪な条件での労働が後を断たないのは、そういう労働でも就く人がいるからだ。

「今回の判決では、生活保護の本来の姿が回復されたとも言えます。劣悪な仕事を拒否して、当然の水準以上の仕事につくまでのつなぎとして、生活保護を活用する。それが本来のあり方です。『生活保護しかない』という人は、働く権利を侵害されているんです。働けて働きたい人には、安定した雇用の場、勤労の権利が確保されるべきです。でもそれは、『どんな仕事でも』ではありません。人間の尊厳に値する勤労条件が、最低条件です」(笹沼氏)

 その「人間の尊厳に値する勤労」を支えるのが、憲法第25条の「生存権」であり、生活保護制度である。生活保護は労働も含めて、社会の何もかもを支えている。そのことを再認識する機会ともなるのが、今回の「静岡エイプリルフール訴訟」高裁判決であろう。

 次回は前回に続き、生活保護の家賃保障(住宅扶助)削減が及ぼし始めている影響について、不動産業者の立場から見た現状と今後への懸念をレポートする予定である。