常総市の市庁舎浸水・孤立の衝撃

9月10日の豪雨で浸水被害に遭った常総市内の庁舎 Photo:AFLO

 江戸幕府は1629年から数十年をかけて北関東から江戸への水流を、大きく変化させました。江戸川などに流れ込んでいた利根川を、東へ向かう旧常陸川に直接つなぎ、江戸の洪水を防ぎました。しかしその新しい利根川に北西からの渡良瀬川も北からの小貝川も鬼怒川も、すべてが集まることになり、それらの合流地域は以来、大規模な洪水に悩まされることになりました。

「利根川水系河川の流路変遷」(出所:「防災コラム」〈水谷武司氏作成〉より引用)

 全長177kmの鬼怒川の名の由来には諸説あります(*1)が、もともと絹川・衣川だったのが、鬼怒川となった、というものも。今回の大規模かつ破壊的な水害を見ると、思わず頷いてしまいます。堤防を越えた水流は瞬時に堤防を決壊させ、常総市の4分の1を覆い、住民数名を死亡・一時行方不明に追い込みました。

 しかし今回、全国の自治体職員を驚かせたのは、その洪水の中で「防災拠点」としての機能を完全に失った常総市庁舎の姿でした。9月10日の夜、待機・活動していた市役所職員400名、避難してきた市民400名、自衛隊員・消防員・報道陣ら200名の計1000人を集めた市庁舎は、あえなくその自身のライフラインや通信・交通機能を喪失し、市の災害対策本部ごと孤立してしまいました。

「防災=耐震」だった常総市役所

 常総市庁舎は2014年11月末に竣工した、全国でも最新鋭の庁舎のひとつのハズでした。その建設にあたって、常総市役所は「基本理念」とともに5つの「基本方針」を掲げています。

(出所:常総市役所HP

 項目そのものはどの自治体でも大差ありません。ただここでの特色を1つ挙げるとすれば「防災=耐震」であったということでしょう。

 東日本大震災で震度6弱の揺れを観測した常総市では、市役所本庁の旧館(*2)が大きな被害を受けました。

 築後50年を越えていた旧館は、危険建物だということで使用禁止となり、多くの行政課(農政課や総務課、安心安全課など11課)が、新館や敷地内のプレハブ、近隣の公民館などに移転させられました。

 直後に立ち上げられた「庁舎建設検討会」は、市役所の執行部や市議などをメンバーとし、T設計事務所の支援のもと、議論を重ねていきました。もちろん「災害対応機能」はその主要な検討ポイントであり、多くの時間が割かれました。

 しかし、「災害=地震」であり、鬼怒川による「洪水」は、なぜかノーマークでした。「常総市洪水ハザードマップ」で、その危険は自らが既に市民に対し発信していた(*3)というのに。

 市長は被災から4日後の14日、「(堤防が壊れる)『決壊』は想定していなかった。(洪水が起きても水が溢れるだけの)『越水』の想定だった」と語っています(*4)

*1 古名である毛野川(けぬのがわ)がなまったもの、とも。
*2  本庁は、1959年建築の旧館(RC造3階建て、延べ約2210平方メートル)と1983年建築の新館で構成されていた。
*3  2009年に作成、市内全戸に配布された。マップで市役所は「1~2メートル未満の浸水」が予測されていた。
*4 他にも住民への避難指示の遅れや誤りといった問題もあった。