先ほど言った通り、明文改憲なくして軍事力の整備が行なわれてきたというところに日本の戦後の歴史の特徴があるのですが、これはドイツと比べると対照的です。ドイツでは1956年に憲法を改正して再軍備を明記し徴兵制を導入、かつ68年には緊急事態条項が明文改正で導入されました。賛否は別にして、やり方としては、まさに立憲主義的で非常に分かりやすいケースです。

 しかし、そうした形が全てではない。実際、アメリカなどは「解釈で憲法を変え得る」という考え方も有力です。それも一つの文化です。

 その場合、ある歴史的時点で「これがこの時代には良い解釈だ」というものが出されて、一般の人々そして法律家集団がそれに納得することによって定着します。「こういう状況だから、今こういうふうに解釈を変えないといけないのだ」と、理の通った説明がされ、多くの人が「なるほどそうだな」と思えるのであれば、憲法解釈の変更は許される。

 ただし、「今、変えないといけない」ということの論証が、十分かどうかが問われます。

新安保法は必要性の論証が不十分
“政治の問題”として議論すべき

――今回はまさに、その論証が十分なのかが問題だったのではないでしょうか。

 そうなのです。例えば先ほど言った新3要件への疑問もそうです。

 今回の法案は「戦争法案」だと言われました。非常に厳しい表現ですが、これはそもそも国民と政府の間にしっかりした信頼関係がないということを露呈しています。政権が言うように争いを未然に防ぐ、あるいは最小限度に抑えるというよりも、不必要な戦争行為にまで進めたいのではないか、という大きな不安がある。政権の側は全くのデマだと言いたいかもしれませんが、そうした表現が広がっていること自体を、深刻に受けとめるべきだと思います。

――つまり憲法解釈の変更が必要であるとするためには、それだけの必要性があること、そして集団的自衛権を認めることによって日本の抑止力が高まり、平和に寄与することが論証されなければならない。そこが十分であったのか、疑問です。

 それが今後、具体的に論議を深めるべき点です。

 今回の安保法制で、「周辺事態安全確保法」が「重要影響事態安全確保法」に変わりましたが、それにより、自衛隊の活動範囲に地理的な要件がなくなりました。また「戦闘地域」と「非戦闘地域」の区別がなくなって、「現に戦闘行為が行われている現場」以外なら、弾薬の提供や、米軍の武器の防護までできるようになった。果たして、これらは、安全保障環境の変化に対応して日本の安全保障をより強めることになるのか。