最高の教育とは「教えない教育」である

【鈴木】私はときどき学校の先生たちと一緒に、高校生を対象とした「熟議ワーク」をやっています。熟議というのは「熟考したうえでの議論」のことなのですが、生徒たちをいくつかのグループに分けて、付箋や模造紙なども使いながらディスカッションさせるんですよね。

『熟議のススメ』(鈴木寛[著]、講談社)

そのとき、先生たちは各テーブルを回りながら、生徒がやっていることを徹底して見て、聴く。とにかく先生は手を出さない。「見られている」というだけで、生徒たちには十分な緊張感が生まれます。

でも、高校の先生はすぐに「助け舟」を出そうとするんですよ。ワーク終了後の振り返りのときに、「鈴木さんって、本当に『待て』ますよね」って感心されるんですが(笑)。

【津田】助け舟を出さない教育って、僕もとても大事だと思っています。やはり自分で考えて、自分でわかったことは忘れないないですから。

【鈴木】そうそう、忘れない。でも、高校の先生たちもかわいそうなんです。結局、学習指導要領で決められている範囲までは授業をやらなきゃいけないので、とにかく学期中に授業をこなすというスタイルになってしまいがち。生徒が理解していようがいまいが、とにかく形だけの授業をやるという「発信主義」になるんです。

それよりも大事なことは、「自分で学べる子」を育てることです。灘の授業のいいところは、「導入の部分」にものすごく時間をかけること。そこで原理原則が頭に叩き込まれているので、そのあとの授業がスピーディにさーっと進められる。

【津田】僕も企業研修や社会人セミナーでは参加者を指すんですが、答えが出るまでなるべく待つようにしていますね。一度、あまりにも待ちすぎて、授業が終わったら23時45分だったこともあるくらい(笑)。指された人はつらいですけど、こうでもしないとみんな考えないんですよ。

その意味でいうと、単なるグループディスカッションというのは「考えさせる」のに向いていない。みんな考える前に「間」を埋めようとして「しゃべって」しまいますからね。

【鈴木】ええ、よくわかります。熟議ワークでも、最初は参加者には発言させません。まずは個人で、脳の中に入っているアイデアを全部、ポストイットに書かせる。

「このテーマに関して頭の中にあることをすべて書き出しましょう」と言うと、日ごろからものを考えている人は、10枚でも20枚でも書ける一方、全然書けない人も出てくる。わざわざ「あなた、普段から考えていませんよね?」なんて言わなくても、もう目の前のポストイットを見れば、考えているかどうかは一目瞭然です。

【津田】質も大切なんですけど、量は質に展開しますからね。やっぱりたくさん出せることが必要条件だと思います。

【鈴木】そう、そのあとにポストイットをグルーピングさせて、グループにラベリング(名前をつける作業)させます。ここでは「言葉の力」の差が歴然と出ます。いい名前の候補をどんどん出せる人と、何も言えない人——その人のもつボキャブラリーの豊かさが露呈するわけです。