ダウェー開発の過去と現在

 単体でも、南部回廊の最後のリンクという意味でも、注目度の高いダウェーだったが、その実際の開発に向けた動きは非常に遅かった。これには、ミャンマーでは2008年5月に来襲したサイクロン・ナルギスによる被害からの復興にエネルギーを取られ、またタイではタクシン前首相(支持)派と政府間の争いに端を発する国内の政情不安で開発どころではなかったという背景がある。しかもこうした両国の国内事情に加え、その規模ゆえに資金面での課題が当初から存在し、ミャンマー政府とタイ最大手ゼネコン、イタリアン・タイ・ディベロップメント(以降、ITD社)との開発契約も結局、同社の資金調達の失敗で2013年に白紙になることが発表された。併せて南部回廊最後のミッシングリンクであるダウェーからタイへと続く道路の建設も中断していた。両経済特区の開発スピードを比較した図表4-14を見てもらえば、ティラワと比べて動きの間隔が長く、スピード感に欠けていたことが窺い知れる。


 2013年の中断決定から2年、ようやくダウェーは開発に向けて再開の兆しが芽生えた。2015年7月には日本政府が開発に向けて協力する旨の覚書をミャンマー・タイ両政府と交わし、翌月にはミャンマー政府はITD社と第1期開発契約を調印し、日本の支援も再度表明された。第1期の開発は、工業団地と商業地区、そして、インフラとして発電所、液化天然ガス(LNG)ターミナル、タイへと通じる2車線道路、小規模な港湾、貯水池、通信線等を計画しており、8年以内の完成を目指している。ミャンマーの副大統領は、完成後数年で30万人の雇用が創出されるとの予想を示した。
 そうはいっても、今までのダウェー開発の歩みを鑑みると、この先も一筋縄ではいかないことも予想される。開発予定地では反対している住民もおり、インフラの面でも広大な面積に対して安定的な電力供給等が可能になるのかどうかなど、懸念事項はいくつかある。そもそも以前、資金面で契約を白紙に戻すことを余地なくされたITD社が再度契約を締結しており、また同じ問題が発生しないとも限らない。だが、今回大きく違うのは、ミャンマー・タイに加えて日本が協力する姿勢を明確に打ち出している点だ。思えば、ティラワの開発においても、地元住民の反対や一部の私有地の接収でもめた経緯があった。ただそうしたことを一つひとつ乗り越えてきて、ティラワの整備を実現してきた今までの実績が、このダウェーにおける参画にもつながっていることは明らかだ。
 ダウェーはその地政学的な位置付けから、ティラワの経済特区以上に今後の開発が期待されている。それを裏付けるかのように、その計画自体はティラワの計画より早く始まっていた一方で、計画主体やその内容が定まらず、結果としてティラワより遅れることになってしまった。ようやく2015年7月に、新たに日本を巻き込む形でミャンマー、タイを含めた3国での覚書が締結され、ようやく再度開発の機運が高まっているのが現状だ。
 ダウェーの開発が当初動き始めたのは2008年ごろで、その時の開発主体はタイの大手建設会社であるITD社だった。その後ITD社は自社で対応することができず、計画が一旦頓挫することになる。こうした中で、新たに政府主導の枠組みで再度進んでいるのであるが、こうした一連のプロセスを見ていくと、いくつもの疑問が湧いてくる。

 ・タイ、ミャンマーにとってのダウェーの位置付けとは何か
 ・
そもそも、なぜこのような大規模なプロジェクトがITD社といった一企業の手に任せられたのか
 ・現在前向きに進み始めたのは何が理由なのか

 こうした疑問点を一つひとつクリアにしていくために、今回はダウェーの再開に深く直接的に関係しているタイ国家経済社会開発委員会政策顧問 松島大輔氏(2015年12月現在、タイ工業省政策顧問、タイ王国公益法人お互いフォーラム副理事長、長崎大学教授)に話を伺った。