朝鮮戦争で、アメリカを中心とする国連軍を相手に徹底的なゲリラ戦を繰り広げた中国義勇軍。その戦い方は、大手相手に局所優位で戦う中小企業にとっても多くの学びがある。独自の品質、市場で大手企業に負けずに勝利をつかむにはどうすればいいのか?ニッチで戦うゲリラ戦の極意とは?今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則14】ニッチで戦うなら徹底的にゲリラ戦を効率化する

圧倒的な勝者の米軍を、なぜ中国軍は追い詰めることができたのか?
第二次世界大戦の終了から5年後、南北に分断された朝鮮半島で新たな紛争が起こる。米軍が一時半島を北上するも、中国軍の参戦で戦局は大逆転。なぜ中国軍は、最新装備と圧倒的火力を持つ米軍を大きく押し戻すことができたのか。

米ソ二大国により、38度線に境界が設定される

 1945年6月に日本軍の沖縄での組織的な抵抗が消滅。8月上旬には広島、長崎で原爆が炸裂。ソ連が日本に宣戦布告し、150万人が満州、4万人が北朝鮮に攻め込みます。米軍は沖縄上陸作戦に疲弊し、米国務省・陸海空軍調整委員会は対策を協議します。日本本土の上陸・占領に大兵力が必要と考える米軍部に対して、国務省はソ連の進出を抑えるため、米軍ができるだけ北上して日本軍の降服を受諾すべきと考えます。

「議論が続いたが、最後に朝鮮の一部で日本軍の降服を受け入れることで、アジア大陸の一部に足がかりを残す、ということで妥協した」(饗庭孝典『NHKスペシャル 朝鮮戦争』より)

 38度線の南をアメリカ、北をソ連が日本軍の武装解除を担当する案をソ連側も了承。当初38度線に障害物などはなく、米ソの兵士が一緒に食事をしたり、トランプをする光景も見られましたが、統治方針の違いが次第に明確になり、半島内も政治勢力の対立が激化。米国はソ連の反対を押し切って朝鮮独立問題を国連に提訴します。

 1948年5月に南朝鮮の選挙で李承晩を大統領とする大韓民国が成立。北朝鮮も8月に選挙を行い、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国の樹立を宣言。ソ連は同年10月に撤退を開始、米軍も軍事顧問以外は翌年六月に撤兵を完了します。

1950年6月25日、3年にわたる朝鮮戦争が始まる

 38度線で分断された南北の、微妙な均衡が崩れたのが1950年6月25日です。朝鮮戦争は3年間続きますが、最初の半年で劇的な展開が何度もあり、以降の2年近くは中国義勇軍VSアメリカを中心とした国連軍の一進一退が38度線付近で続きました。

・北朝鮮の奇襲で、韓国軍は開戦一ヵ月で半島南端(釜山)まで追い詰められた
・マッカーサーの仁川上陸で形勢が逆転、10月末に米軍は中国との国境に迫る
・米軍が国境線に近づいたことで中国軍が参戦、初期だけで60万人の兵員を動員
・一時中国軍が38度線を越えて南進するも一進一退で2年が経過し休戦

 韓国軍は、開戦以前は警察組織程度の武装しか米軍から供与されていませんでした。

「北朝鮮は飛行機の援護があったが、韓国軍には高射砲中隊さえなかった。また韓国軍は、戦車の進撃を阻止することのできるいかなる種類の火器も所有していなかった」(マシュウ・B・リッジウェイ『朝鮮戦争』より)

 リッジウェイは、第2次世界大戦では欧州のノルマンディー作戦にも参加した米陸軍の軍人で、マッカーサーが朝鮮戦争の最高司令官を解任されると、後任として指揮を執り、中華人民義勇軍の攻勢を跳ね返して、戦局を再逆転させた人物です。

 北朝鮮の奇襲に、国連の安全保障理事会は非難決議を行います。7月には占領軍として日本に駐留していた米スミス支隊が半島に到着。しかしソ連製の強力なT-34戦車を持つ北朝鮮軍に対抗できず、部隊は壊滅寸前で撤退。

 8月には16ヵ国が朝鮮半島に軍を派遣します。米・韓軍は7月末には釜山を中心にわずか南北144キロ、東西96キロの地域だけを保持しており、朝鮮半島のほぼ全域が北朝鮮軍に占領される窮地に追い込まれます。

 潮目が変わったのは9月15日、米軍の仁川上陸作戦からです。朝鮮半島の中西部(ソウルから西に約40キロ)の仁川港に、米海兵隊を中心に5万人が奇襲上陸します。

 毛沢東と参謀たちは予想していた米軍の仁川上陸が現実になり、参戦検討に入ります。北への退路を断たれる恐れが出た北朝鮮軍は、撤退を開始。撤退する敵を追いかけて米軍と国連軍は38度線を回復しますが、さらに北進すべきか否かで議論は分かれます。

 しかし同年10月には韓国軍、次いで米軍と国連軍が38度線を越えて北進を開始。北朝鮮が中華人民共和国に支援を要請する一方で、米軍のマッカーサー元帥は、中国参戦の可能性はないと判断。東西に軍を二分してさらに北進しました。

 米軍と国連軍は10月下旬には中国の国境線の鴨緑江まで、あと50キロまで進軍。毛沢東は参戦を決断。第一陣の参加兵力は約26万人、東西で分進した米軍が通らない山脈地帯に一部は潜伏して、攻撃と同時にまず西側の米韓軍に包囲戦闘を仕掛けます。11月には東海岸から北進した米韓軍も中国軍と遭遇して包囲されて窮地に陥り、12月には撤退を開始します。

「圧倒的な火力があった。それにも関わらず国連軍は押された。中国軍は夜と山を利用し、国連軍の弱い地点に数倍の兵力を集中して奇襲攻撃をかける、それも人海戦術として知られた犠牲をものともしない攻撃で局面を掌握した」(前出『NHKスペシャル 朝鮮戦争』より)