「健康で文化的」とは?
生活保護基準が実現してきた生活の内実

 まず、生活保護基準が実現すべき「健康で文化的な最低限度の生活」、より誤解少なく言い換えるならば「最低限度ではあるけれども、健康で文化的といえる生活」とは、何なのだろうか? 少なくとも、必要な物品やサービスを購入する費用は、金額として目に見える形にすることができる。

 社会福祉学者の岩永理恵氏・堅田香緒里氏は、2011年~2012年にかけ、「基本的な暮らし」に必要な品目と費用を明らかにする研究を行った。単身勤労者の実際の生活と所有・購入している品目をもとに、市民グループで議論し、納得できる「基本的な暮らし」の内容と費用を明らかにするというものだ。結果は「くらしのもよう」ページで公開されている。具体的な費用は、概ね18万5000円程度(医療費・社会保険料・税金・貯金等は含まず)。現在、同条件の単身者に対する生活保護費(生活費+家賃)は、12万4000円~13万3000円である。この差は、「生活保護なら働かなくていいんだから、しかたないだろう」と見ることも「働いていない生活保護利用者が、就労して生計を立てる生活に戻るためには、プラス5万円以上が必要ということか」と見ることも可能だろう。

 ともあれ現在の生活保護制度は、「なぜ困窮したか」「働けるか働けないか」「働いているか働いていないか」を問題にしていない。

「旧法(筆者注:1946年制定・施行の生活保護法旧法)で、GHQの非軍事化をテコに、無差別平等の原則が承認されたことにより、稼働能力の有無は受給資格の条件ではなくなりました。困窮理由を問わず、困窮状態のみを要件とするということです。これは今日まで変わらず、稼働能力があるという理由だけで、保護を却下することはできません。もちろん稼働能力と“就業機会があること”は別の問題です」(菅沼氏)

 身体健康、なおかつ一定の職業スキルや職業経験もある人が、労働市場から必要とされなくなる状況は、いつでも・どこでも起こりうる。稼働能力がある人が就職できるかどうかは、地域の雇用情勢という客観的な条件に左右されるし、また、能力・経験に適した雇用機会があるかどうかも、個別的な事情によって異なる。このため稼働能力があっても就労できない場合は、生活保護の受給資格がある場合もある。少なくとも「パチンコに行けるかどうか」は判断材料にはならない。

「(筆者注:生活保護制度では)多様な原因による多様な困窮状態に対して、無差別平等に保護をするという理念を実現するために、貧困線=保護基準以下の者で、ミーンズテストに“合格”(貧困線以下)と認定された人に無差別平等に救済を行うという、客観的な手続きが確立されました。1950年代の保護基準はマーケットバスケット方式を採用し、生活に必要な食料・日用品などを積み上げて『健康で文化的な最低生活(筆者注:「最低限度の生活」=最低生活)』を算定していました。新聞購読料と通信費(切手代など)を含んでいたので「文化的」とされたのでした。当時の保護基準については木村孜『生活保護行政回顧』に詳しいですが、これを知って、当時の保護基準が如何に低く、非人間的な水準であったのか、驚かない人はいないでしょう。それが「健康で文化的な水準」とされていました。また、現在の生活保護基準でも、それで生活することは日常生活に制約がありますので、保護基準は厳しいものだと認識するべきでしょう」(菅沼氏)

 私自身、多数の生活保護利用者を取材して、「働かずに暮らしていけて羨ましい」と思ったことは一度もない。むしろ取材を重ねるほど「なんと厳しいのだろう」という思いが大きくなっていく。映画・プラモデル・ゲーム・ペット・ブランドものバッグなどに、ややバランスを欠いた支出を行っている生活保護利用者は、数多く知っている。もちろん、その支出の分だけ、「生きるためにより重要」と誰もが納得する何か、たとえば食費が圧迫される。しかし、よく話を聞いてみると、その「生きがい」への消費が、生き続け、ややバランスを欠いたなりに生活をマネジメントして向上させていこうとするモチベーションの源となっている構図が見えてくる。