4.ドイツの求心力後退リスク

 2007〜2008年のリーマン・ショックで米国の経済社会に激震が走った後、欧州にもその津波が押し寄せた。アイルランドの金融危機やギリシャの債務危機に続く、ポルトガル、スペイン、イタリアの財政赤字懸念は、各国の頭文字を取って「PIIGS問題」と呼ばれ、ユーロの存続を脅かすほどの暴風雨となった。その台風の目になったのは、ギリシャである。

 ギリシャは2010年6月に総額1100億ユーロ、2012年2月には総額1300億ユーロの支援をEU/IMF/ECB(トロイカ体制)から受けた。既存債務についてもリスケジュールを行って、財政改革を通じた公的債務水準の引き下げを約束したのである。だが、こうした巨額支援に加えて、ECB(欧州中央銀行)による国債買い入れという異例の支援を受けたにもかかわらず、ギリシャは債務削減に失敗し、2015年には3度目の支援が必要になった。

 支援条件であった歳出削減や国有資産売却などが進捗せず、ギリシャの対応に強い不満を抱く債権国ドイツを中心に「ギリシャ斬り捨て論」が台頭し、市場には「ギリシャのユーロ離脱観測」が高まっていく。ギリシャ政府が、厳しい緊縮財政を迫るドイツの姿勢に猛反発したことも、ユーロ圏の分裂を予感させることになった。

 2015年7月、ギリシャのユーロ離脱やむなしとのムードが強まる中で、ギリシャに3度目のチャンスを与える苦渋の最終判断を下したのはドイツのメルケル首相であった。同首相は、ドイツ連銀が猛反対したECBによるギリシャ国債買い入れにも理解を示すなど、ユーロ圏の現状維持を最優先させる姿勢を見せたのである。

 この一件だけでなく、EUおよびユーロ圏の政治経済に関わる重要な岐路において常に力強い指導力を発揮してきたのがメルケル首相である。2005年にドイツ史上初の女性首相として二大政党の大連立政権を率い、ドイツだけでなく欧州を代表する顔として世界にその存在感を示してきた。

 だが、内外で高い支持率や評価を得てきたメルケル首相にも、徐々に秋風が吹き始めている。ギリシャへの妥協に反発する声や長期政権に対する倦怠の感に加えて、シリアなどの難民問題に対する受け入れ姿勢が、反メルケルのムードを徐々に醸成しているのである。それは、2017年の総選挙に向けて、ドイツ社会や共同体としてのEUやユーロ圏に微妙な変化を生み始める可能性がある。

 ドイツ国内で過去に例を見ないほどの「メルケル批判」が表面化した原因は、2015年9月に亡命規則適用を一時的に停止して全面的な難民受け入れ方針を表明したことにある。

 この英断は内外で高く評価されたが、国内には当然ながら難民の大量流入を拒絶する声が小さくない。地方自治体には住宅問題で財政が圧迫されるとの懸念が強く、医療費や教育費の負担など公的支出が急増しかねない、との批判もある。

 東西ドイツ統一に苦労しながら最終的には経済大国を再建することに成功したドイツには、難民への寛容な態度が中長期的にプラス効果を生むという自負や期待感がある。だが、年間100万人に達するほどの難民の流入ペースは短期的には社会不安や財政不安を連想させやすい。首相陣営のCDU(キリスト教民主同盟)内部からも難民政策反対の声が上がり始めており、2017年に行われる総選挙を前に、選挙対策としての「メルケル降ろし」が画策される可能性もないとは言えない。

 メルケル首相自身は2005年、2009年、2013年の総選挙に勝利し、2017年には4期目の政権運営を視野に入れていると見られていたが、事態は流動的になりつつある。仮にメルケル首相が退陣してより保守的な勢力が強まることになれば、フランスやスペイン、ポルトガルなど右傾化が著しい欧州全体のムードがさらに保守化することになるだろう。

 欧州一強時代を表徴するドイツの求心力が弱体化すると、EUやユーロ圏などの共同体理念も揺らぎかねない。英国のEU離脱が現実化すれば、さらに離散傾向は強まることになるだろう。第二次世界大戦後、政治的・経済的な結束を求めて形成されてきた欧州の姿は、重大な変曲点を迎えるかもしれない。

 それはユーロの存続性に対しても、深刻な疑念を抱かせる。EU内で軍事的な衝突が起きることは考えられないが、社会的な不満の鬱積が各国間の刺々(とげとげ)しい対立感情を生み始めたり、欧米間の同盟関係の弱体化が進んだりすることも予想される。欧州は新たな地政学リスクに直面し始めている。