今年9月10日、日本で初めてペイオフが発動された。対象となったのは、前会長ら経営陣が相次いで逮捕された日本振興銀行。金融界にとっては歴史的な出来事だったはずだが、預金者にも他の銀行にも大きな混乱はなかった。こうした事情の裏側には金融庁の思惑が見え隠れする。
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「現在ファンドと資本提携の交渉中です。安心してください」
2010年9月8日、日本振興銀行の小畠晴喜(作家名・江上剛)社長は300人近い行員たちを前に、そう高らかに宣言した。それは振興銀が経営破綻に至るわずか2日前の朝礼での出来事だった。平静を装った“安心宣言”の裏で小畠氏は、振興銀が抱えていた1870億円の債務超過を解消するために、スポンサー探しに奔走していた。
「米国や中国、東南アジアのファンドや事業会社」(小畠氏)十数社に接触した模様だが、金額で折り合わなかったほか、「当局のバックアップが保証されなければ無理」(関係者)と無下に断られ、結局合意には至らなかった。
ついに万策尽きたかたちの小畠氏は、9月10日午前6時2分に臨時取締役会を開いた直後、金融庁へ報告に向かう。その内容は、スポンサー探しに失敗し、自主再建の見通しが立たないというものだった。
この瞬間、振興銀の破綻は決まり、1971年に預金保険制度ができてからじつに40年近い時を経て、日本で初めてペイオフが発動されることとなったのだ。
振興銀の業務執行、財産の管理や処分などの権限を継承した預金保険機構(預保)の面々は即日、破綻処理マニュアルを携えて振興銀に乗り込んできた。
そのマニュアルは数百ページにも上る分厚さで、しかも振興銀の破綻用に作られた独自のものだった。つまり、小畠氏が東奔西走している裏で、破綻処理の準備は着々と進んでいたというわけだ。
振興銀の特異性を逆手に
金融界に投げた牽制球
ところが、国内初のペイオフという金融界の歴史に残る大きな出来事を迎えたにしては、あまりに静かだった。
業務停止が解け、預金払い戻し再開日となった9月13日の朝、振興銀の本店前に集まった預金者はわずかに10人程度。整然と列をつくり、午前9時の開店を黙って待っていただけで、銀行破綻といえば連想される取り付け騒ぎとはほど遠い光景だった。