「脳をつくる時代」が到来
「なんと、京都で生まれ育ったと?スーパー!!わしも何度か行ったことがあるが、あんなにすばらしい土地はないな。さあさあ、お茶でも飲もうぞ」
大の日本フリークということも手伝って、久しぶりの新人に対するヨーダの歓待ぶりは並大抵ではなかった。あの強烈な不潔ささえなければ、彼がとても魅力的な人物であることは私も否定しない。
ただ、貴重な研究生活をこの変人の下で無駄にするのは、どうしても耐えられなかった。配属から2週間も経たないうちに、私は医学部のチェアマンに掛け合い、「いますぐ研究室を変更してほしい」と食い下がった。半ば呆れ顔のチェアマンを説き伏せ、私が次に配置されたのが先端脳科学研究室だった。
しょげ返るヨーダを打ち捨てて手に入れたその研究環境は、まさに私が求めていたものだった。同僚たちは、鳥肌が立つような最先端の研究に取り組んでいる。メンタルケアにおける脳科学の進歩にはすさまじいものがあった。
たとえば、うつや不眠といった症状が、脳内の出来事に起因するのは周知のところだが、いまでは脳という臓器に対する直接的な治療がはじまっている。
その1つが、「磁気」を用いて脳の活動を局所的に変えるrTMS(Repetitive Transcranial Magnetic Stimulation: 反復経頭蓋磁気刺激法)と呼ばれる治療法だ。この方法で左背外側前頭前野という部位の活動を高めると、うつを治療することができる。
もはや、副作用とは切り離せない薬物を投与するだけの時代ではないのだ。fMRI(磁気共鳴機能画像法)やQEEG(Quantitative Electroencephalography: 定量脳波)といった画像検査で治療ターゲットを絞り、患者ごとに最適な治療が施されてきている。さらに、脳の深奥部にまで到達する深部磁気刺激(Deep TMS)という磁気治療では、強迫神経症やPTSD(心的外傷後ストレス障害)、薬物依存など、10を超える適応症が見込まれている。
アメリカでは、このような先端研究が国家レベルで後押しされている。2013年からはじまったBRAIN構想(The Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)は、脳をとことん解明しようとするホワイトハウス主導のプロジェクトだ。
脳内物質や受容体に作用する治療薬の開発も目覚ましい。うつ病治療のスピードアップを図る薬物として、ケタミン、スコポラミン、亜酸化窒素などが候補とされている。これらは、もともとうつの薬として開発されたわけではなく、抗うつ剤の作用メカニズムが脳科学的に解明されていく中で、新たに見出されてきたものだ。磁気共鳴スペクトロスコピーと呼ばれる画像技術を使えば、GABAやグルタミン酸といった脳内物質を測定したりすることも可能だ。
さらに、人工知能(AI)分野の研究と重なる部分も大きい。グーグル傘下にあるディープマインドという会社が、インベーダー・ゲームをするAIを開発したというニュースがあったが、いまでは外付けのコンピュータで人間の記憶を補う技術も開発が進められている。高齢化に伴って増加するであろう認知症なども、テクノロジー的に対処できるようになるかもしれない。
脳をつくる時代がもうそこに来ているのだ。
私が移った先端脳科学研究室は、そんな未来を先取りする最先端知識の宝庫だった。ずっと充電されていたエネルギーが堰を切ったかのように解き放たれ、昼夜を問わず来る日も来る日も研究室に入り浸った。