拙著、『知性を磨く』(光文社新書)では、21世紀には、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という7つのレベルの知性を垂直統合した人材が、「21世紀の変革リーダー」として活躍することを述べた。
この第7回の講義では、「人間力」に焦点を当て、拙著、『人間を磨く - 人間関係が好転する「こころの技法」』(光文社新書)において述べたテーマを取り上げよう。

多くの古典で「我欲を捨てる」や「私心を去る」といった言葉が語られるが、自分の中の「我欲」や「私心」否定し、捨て去ろうとしてしまうのは誤りだ

「我欲」や「私心」は、
捨てることができるのか?

 今回のテーマは、

なぜ、「我欲」や「私心」を捨てようとしてはならないのか?

 このテーマについて語ろう。

前回は、「なぜ、古典を読んでも、人間力が身につかないのか?」というテーマを掲げ、その理由として、我々が古典を読むとき、ただ「理想的人間像」を学ぶだけにとどまり、「具体的修行法」を学ばないということを語った。それが第一の誤解である。

 では、第二の誤解は、何か?

 それは、古典を読むとき、多くの古典が語っている「我欲を捨てる」や「私心を去る」といった言葉を、素朴かつ表面的に受け止め、自分の中の「我欲」や「私心」、言葉を換えれば「小さなエゴ(自我)」を、否定し、捨て去ろうとしてしまうことである。

 では、なぜ、これが誤解か?

 我々の心の中の「小さなエゴ」は、捨て去ることはできないからである。

 我々の心の中の「我欲」や「私心」「小さなエゴ」は、捨て去ろうと思っても、消し去ろうと思っても、決して、それはできない。捨て去ったように見え、消し去ったように見えても、それは、ただ抑圧し、心の表面に出ないようにしているだけである。そして、心の中で抑圧した「我欲」や「私心」「小さなエゴ」は、一時、心の奥に隠れるが、それは、いずれ、必ず、心の奥深くで密やかに動き出す。

 例えば、同期入社の同僚が先に昇進したとき、表面意識では「同僚の昇進を妬んではならない」と思い、心の中の「小さなエゴ」を抑圧し、「自分は、同僚の昇進を妬むことなどない」と思う。しかし、数か月後、その同僚が病気で休職になったとき、心の奥に、それを密かに喜ぶ自分が現れる。

 そうした形で、「小さなエゴ」は、捨て去ったと思っても、必ず、心の奥深くで密やかに動き出す。そして、それは、ときに、極めて巧妙な形で、我々の心を支配する。

 例えば、先ほど述べた「我欲を捨てる」「私心を去る」という言葉。

 こうした言葉を読むと、当初、我々は、この言葉を真摯に受け止め、自分も、そうした「我欲」や「私心」に振り回されない人間になりたいと考える。しかし、自分自身の中で、「我欲を捨てよう」「私心を去ろう」と考えているうちは良いのだが、修行中の人間が、この言葉を周りに対して語り始めると、危うい状態が始まる。

 なぜなら、周りに対して、「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」と語り始めると、いつのまにか、心の中に「私は、我欲を捨てた人間だ」「私は、私心を去った人間だ」という自己幻想が生まれてくるからだ。

 そして、この自己幻想の背後には、必ず、「小さなエゴ」が忍び寄り、潜んでいる。

 すなわち、周りに対して「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」と語ることによって、周りから「あの人は、我欲を捨てた人間だ」「あの人は、私心を去った人間だ」と思われたい、自分を立派な人間だと思われたいという「小さなエゴ」が、密やかに忍び込んでくるのである。

 そして、さらに怖いことは、「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」と語っている人間自身が、自分の心の中で蠢く、その「小さなエゴ」に気がつかないことである。

 なぜなら、我々の心の中の「小さなエゴ」は、ときに、「小さなエゴを捨てた高潔な人間の姿」を演じて、満足を得ようとすることさえあるからだ。

 このように、我々が、自分の心の中の「我欲」や「私心」という「小さなエゴ」を、素朴に否定し、捨て去ろうとしても、ただ、ひととき、それを心の表面から抑圧するだけで、いずれ、その「小さなエゴ」は、心の奥深くで密やかに動き出す。

 では、我々の「小さなエゴ」が、心の奥深くで動き出し、ときに、嫉妬心、ときに、虚栄心、ときに、功名心となって現れるとき、さらに、それを否定することも、捨て去ることも、消し去ることもできないとすれば、どうすれば良いのか?