静かな危機の始まり
外資系損害保険会社J社の危機管理室長Sは、契約者に多大な影響を与える大規模自然災害等に対して、迅速な保険金支払に対応するための危機管理計画を立案したり、対策本部長として指導的立場で、全社員に指示を与えるのが主な業務である。
Sは10年ほど前までは米国連邦緊急事態管理庁(FEMA)の上席専門官で、その後は退官して著名な再保険会社で役員を勤めた後、5年前にJ社に迎えられた。
今日も何もなく室長が帰り支度をしていたところ、静まりかえった危機管理室内で警報とともに、赤いアラートランプが回り始めた。オセアニア近隣海域で、一つの台風が静かに発生したことを知らせていた。
本社の深部に密かに存在する、眠らない部署、「危機管理室(Crisis Containment Office)」は、通称「危機の封じ込め屋」と呼ばれ、地震、台風、津波、竜巻、雷、豪雨、大雪、雹などの大規模自然災害を相手に、室長ほか8名の精鋭スタッフで構成されている。Crisis Managementといわず、Containment(封じ込め)が使われているのも、その趣旨からである。
大規模自然災害の中でも、特に台風については、過去50年以上にわたって日本に接近または上陸した台風の全ての軌道、大きさ、最大風速、雨量等のデータと、その際発生した契約者の個別損害データを完全に把握している。
アラートが鳴った時点では、台風は日本から遥か離れた海域にあり、規模も小さく、当然ながら気象庁は台風予報を出していない。しかし、この時点から危機管理室の業務はマックスの状態にあった。
室長に招集された全スタッフが、この台風に関する情報分析を始めていた。今年の台風発生状況、海水温の変異、過去の台風とのデータ比較検討等から、軌道、大きさ、契約者への影響、被害回避への解決策などを次々に分析し、3日後にはほぼその全容が、資料として取締役会に提出された。
当該台風の本土接近確率は概ね60%、上陸確率は20%と判断された。室長の判断で「継続的監視台風」と認定し、本土接近まで1週間の段階で再度詳細な分析を行うこととした。